両手だけが覚えている
花房澄玲は、イントロの拍手が一つだけ近すぎることに気づいた。
七年前に死んだ妹の代表曲〈キャンディ・ハート〉。明るいシンセと跳ねるベース、誰でも真似できる手拍子で、今も運動会に使われている。今夜は妹の追悼配信で、澄玲が初めてミックス卓に座り、生前の映像へ生バンドを重ねる。
イヤーモニターに、妹の声が弾んだ。
「止めないで、その手を」
客席が二拍、四拍と手を鳴らす。だが左端の波形だけ、爪が触れる乾いた音ではない。低く、布越しに潰れる音。澄玲は伴奏を削り、その音を中央へ寄せた。
妹が倒れたのは、この曲の仮歌収録中だった。事務所は心臓の持病による急死と発表した。澄玲は廊下で救急車を待った記憶しかない。中で何をしたかだけ、白いノイズに包まれている。その空白だけ、再生するたび胸の奥が拍に合わせて痛んだ。それでも誰にも言えなかった。
Aメロが進むほど、拍手の隙間に短い呼吸が浮いた。いち、に、さん、と数える自分の声。机を蹴るスタッフ。誰かが自動体外式除細動器を探している。曲のテンポは毎分百十二。胸骨圧迫に使われた数と同じだった。
サビで観客が叫ぶ。
「止めないで、その手を」
澄玲の指がフェーダーを止めた。スクリーンでは妹が笑っている。実際の収録室では、澄玲が妹の胸へ両手を重ねていた。四十回、八十回。救急隊員が到着しても、プロデューサーは部屋のマイクを切らなかった。「この息は使える」と言った声まで残っていた。
だから市販版の手拍子は妙に重かった。拍手ではない。澄玲が妹を生かそうと押し続けた音を、明るく整え、左右へ並べたものだった。
最後のサビ。澄玲はクリックを消した。客席の手拍子が崩れ、代わりに七年前の圧迫音だけが会場を満たす。最後の一音のあと、妹のかすかな吸気が聞こえた。
その直後、自分の泣き声が続いた。
「止めないで、その手を」
歌の振付を促す言葉ではなかった。意識を失いかけた妹が、胸を押す姉へ残した、命をつなぐ最後の命令だった。