九つ目の名前
【保護猫47号 譲渡記録】
推定二歳、雄、灰白。
返還回数八回。
備考――人の手を怖がる。呼び名に反応しない。
佐分利律希は、その紙を三度読んだ。
猫が欲しいと言ったことはない。綿貫さんが「家にもう一人、距離を取るのが上手な子がいてもいい」と連れてきたのだ。
「八回も、名前が変わったんですか」
譲渡会の係員は困ったように笑った。子猫のころの名、写真映えする名、幸運を願った名。欄には八つの文字が並び、そのすべてに二重線が引かれていた。
律希にも、似た紙があった。十三歳までに暮らした家は六つ。施設、里親、また施設。新しい部屋へ移るたび、歯ブラシの場所と「お母さん」の呼び方が変わった。
灰白の猫はケージの奥で、こちらに背を向けている。
「触らないの?」と、付き添いの綿貫さんが聞いた。
「触られるの、嫌いなんでしょ」
律希は床に座り、持ってきた文庫本を開いた。猫を見ず、声にも出さず、ただ頁をめくった。一時間後、帰ろうと立ったとき、制服の裾に灰色の毛が一本ついていた。
それから毎週、律希は譲渡会へ通った。
二週目、猫はケージの中央まで出た。
四週目、本を読む律希の靴を嗅いだ。
七週目、初めて膝へ前脚を載せ、すぐ引っ込めた。
「名前をつけてみたら?」
係員に言われても、律希は首を振った。
「決まってからにします。ぼくも、あいつも」
綿貫家で暮らし始めて一年。律希の部屋には、まだ畳んだ段ボールが一箱あった。いつでも出られるように、捨てられなかった。
春の午後、綿貫さんが書類を持って帰ってきた。
「手続きが終わったよ。今日から、ここは預かる家じゃない。律希の家」
律希は笑おうとして失敗した。代わりに段ボールを開き、しまったままの写真や冬服を棚へ移した。
その夜、灰白の猫が家へ来た。
玄関から一歩も動かず、律希を見上げている。係員が「呼んであげて」と促した。
律希はしゃがんだ。
「つづき」
猫の耳が、初めて名前の方を向いた。
「終わりの次に来るものだから。ぼくら、ここから続きをやろう」
つづきは慎重に近づき、律希の額へ額を押しつけた。ほんの一秒だったが、逃げなかった。
その晩、つづきは空になった段ボールではなく、棚から出した律希の冬服の上で眠った。律希も、箱を畳んで資源ごみの日へ出した。
【保護猫47号 最終記録】
正式譲渡。
九つ目の呼び名――つづき。
返還予定なし。
律希はその一文の下に、鉛筆で小さく書き足した。
――ぼくも。