九十七日目の閉店札
古書店〈余白堂〉の店主、朝比奈環那は、医師から余命三か月ほどと告げられた翌日、入口に閉店のお知らせを貼った。
〈九十七日後に閉店します。店主都合につき、延長はありません〉
本を届けに来た久津見絢人は、紙を三度読み直した。
「閉店セールですか」
「人生の」
「笑えません」
「私は少し笑いました」
絢人は五年間、毎週木曜に段ボールを運んできた。重い全集を持つときだけ眉間に皺が寄ることも、環那が会計を間違えると黙って十円を戻すことも知っていた。環那は彼が来るたび、新しい本を仕入れるよりうれしかった。
告知を貼って三日目、環那はレジ越しに言った。
「久津見さんが好きです」
「……閉店の挨拶にしては重いですね」
「返事は不要です。余命宣告を免罪符にして、一度くらい正直になりたかっただけなので」
「それは告白した側が決めることじゃない」
「では、どうぞ」
「僕も好きです」
環那は困った顔をした。
「そういう展開は予定表にありません」
「返品不可です」
二人は恋人になった。
特別な旅行はしなかった。木曜には本を運び、閉店後にスーパーへ行き、賞味期限の短い牛乳を買った。環那は「私より長い」と笑い、絢人は毎回怒った。
店のカレンダーには、残りの日数ではなく、恋人になってからの日数を書いた。
四十一日目、初めて手をつないだ。
六十八日目、喧嘩した。
六十九日目、仲直りした。
九十二日目、環那は店へ来られなくなった。
閉店予定日の朝、絢人は一人で余白堂の鍵を開けた。客は来なかった。棚から本を抜くたび、そこだけ日焼けしていない壁が現れた。
夕方、環那の妹から電話が来た。
彼女は九十七日目を見ることなく、明け方に亡くなった。
絢人は入口の札を裏返した。
裏には、環那の字があった。
〈ここまで来てくれて、ありがとうございました。
私の余命は九十七日ありませんでした。
でも、私たちが恋人だった日は九十四日もありました。
数えるなら、足りなかった日ではなく、もらえた日のほうにしてください〉
絢人は店内の時計を止めず、最後の一冊を段ボールへ入れた。
閉店札の下へ、小さな紙を足した。
〈店は閉じました。好きだった人の話は、まだ終わっていません〉
それから毎年、告白した日になると、絢人はあの札を取り出した。
九十四という数字は増えなかった。
けれど読むたび、その中に入っている時間だけは、少しも減らなかった。