九十三日目を予約しない
折笠紗己と稲見航平は、同棲を始めた日から共有カレンダーを使っていた。
〈牛乳〉
〈航平、歯医者〉
〈紗己、残業しない〉
〈付き合って五周年。忘れたら罰金〉
余命は三か月ほどです、と医師に言われた日、航平は九十三日先まで予定を埋めた。
毎朝見舞い。
海へ行く。
昔の喫茶店。
二人で写真を整理する。
最終日には、赤い文字で〈ずっと一緒〉。
「九十三日目、私はいないかもしれないよ」
「いるかもしれない」
「それ、予定じゃなくて願望」
「カレンダーは願望を書くものだろ」
航平は会社を休職し、紗己の食事と薬と睡眠を記録した。彼女が咳をすると予定を一つ消し、体調がよい日は二つ増やした。
一か月後、共有画面は病院と検査と〈今日は無理しない〉で埋まった。
航平自身の予定は、何もなくなっていた。
「バンドのライブ、断ったでしょう」
「今は君のほうが大事だ」
「今だけ?」
「当たり前だろ」
紗己は返事をしなかった。
彼が眠った夜、彼女は共有カレンダーから航平の権限を外した。
翌朝、画面には一件だけ残っていた。
〈七月二十日 恋人をやめる〉
「ふざけるな」
「真面目だよ」
「死ぬ前に別れる意味があるのか」
「あなたが、私の余命を自分の人生にしてるから」
航平は怒った。
看取らせてくれ、と叫んだ。
紗己も泣きながら叫び返した。
「私は、あなたの人生で最後の予定になりたくない。私がいなくなったあと、空白しか残らないような愛され方は怖い」
別れの日、二人は計画していた海へ行った。
紗己は歩ける距離が短くなり、途中で何度も休んだ。
航平は手を貸したが、抱き上げなかった。恋人としてではなく、好きな人として隣を歩いた。
夕方、浜辺で携帯電話を並べた。
紗己は共有カレンダーを削除した。
「九十三日目、本当に何も入れないの」
「うん」
「忘れるかもしれない」
「忘れてもいい。予定がなくても来る日を、生きて」
航平は笑おうとして失敗した。
紗己が代わりに笑った。
「じゃあ、今日までありがとう」
「過去形にするな」
「今日までは現在形だったよ」
二人は駅で別れた。
紗己はその二か月後に亡くなった。
航平の端末に通知は届かなかった。誕生日にも、命日にも、予約された言葉は一つもなかった。
九十三日目、彼は久しぶりにライブへ出た。
演奏前、癖でカレンダーを開く。
〈今日の予定はありません〉
その空白を見て、航平は泣いた。
けれどステージへ上がった。
紗己が最後に残したのは、思い出ではなく、彼が自分で使ってよい一日だった。