九時三分の句点
八時五十七分、蛯原透馬の取引画面に、見覚えのない封筒の印が浮かんだ。
〈十五時のあなたから一文――九時三分に東亜レアメタルを買い、十一時四十二分に全部売れ。〉
机には、父の町工場から外してきた青いボルトがある。正午の競売までに保証金三千万円を振り込めば、工場を買い戻せる。透馬の貯金は三百二十万円だった。
言われた通りに売買すると、残高は二千九百四十万円になった。六十万円足りない。十五時、封筒の印が開き、入力欄が現れる。
〈八時五十七分へ送れるのは一文だけです〉
透馬は同じ文の末尾へ「信用枠も使え」と足した。送信した瞬間、秒針が逆に走った。
また八時五十七分。青いボルト。封筒の印。
三周目は売却を七秒早め、六周目は別銘柄を混ぜた。差分だけを一文へ詰め込むたび、残高は膨らんだ。十二周目、三千三百万円。透馬は競売保証金を振り込み、父の工場の名が落札予定者欄へ戻るのを見た。
成功条件を満たした画面に、最後の確認が出た。
〈この未来を確定するには、起点となる一文を過去へ送ってください〉
その下に社内警告が重なった。東亜レアメタルの異常売買を調べるため、透馬の部署が捜査対象になったという。取引に使った予測式は会社の未公開モデルだった。隣席の後輩が、アクセス記録の名義人として呼び出されている。
未来の自分が最初に送った一文は、工場だけを見ていた。青いボルトを握る手にも、父と同じ油の匂いがした。
透馬は取引履歴を保存し、全額を元の口座へ戻した。違約金で貯金は百万円を切った。競売の保証金も失効する。
そして、過去へ送る最後の一文を打った。
〈九時になる前に口座を閉じ、工場の入札から降りろ。〉
送信。
八時五十七分。封筒の印を見た透馬は、その指示に従った。正午、工場は知らない会社に落札された。十五時を過ぎても時計は戻らない。
帰り道、彼のポケットには青いボルトだけが残った。取り戻せなかった建物より重く、これから作るものよりは軽かった。