九月には売らないソーダ
海辺の売店〈波硝子〉は、七月一日から八月三十一日までしか開かない。
小楠井珠璃は、菓子店の仕事を辞めた夏、叔母に頼まれて店番をした。
芥生伊吹は、向かいの監視台で働く季節雇いの救助員だった。
最初の注文は、青いソーダだった。
「氷、少なめで」
「溶ける前に飲めば同じです」
「海で人を助ける前に、腹を冷やしたくない」
「では常温の水をどうぞ」
伊吹は毎日来た。
珠璃は毎日、氷を一つだけ減らした。
閉店後は、二人で砂浜のごみを拾った。伊吹は九月から遠洋調査船へ乗り、三年間、港へ戻らない。珠璃は秋から東京の小さな菓子店で、もう一度働くことを決めていた。
「八月いっぱいだけ、付き合ってみる?」
告白したのは珠璃だった。
「九月になったら?」
「夏季営業終了」
「返品は?」
「受けつけません」
二人は笑って、ひと夏だけの恋人になった。
花火大会では手をつなぎ、台風の日は店の雨戸を一緒に押さえた。珠璃は伊吹のために塩味のクッキーを焼き、伊吹は沖で拾った青い硝子を磨いて渡した。
約束を短くすると、毎日を惜しまず使えた。
明日のために喧嘩を避けたり、将来のために本音を飲み込んだりしなかった。
それでも八月三十一日は来た。
最後の客が帰り、珠璃は看板を裏返した。
伊吹がいつもの席へ座る。
「青いソーダ。氷少なめ」
「売り切れです」
「まだ瓶がある」
「九月の分だから」
時計は二十三時五十八分だった。
伊吹は笑わなかった。
「待っていて、とは言わない」
「言われても待たない」
「三年後、会いに行っても?」
「そのときの私に訊いて」
珠璃は瓶を一本開け、二つの紙コップへ分けた。
炭酸は少し抜けていた。
零時になった。
売店の夏季営業が終わる。
「好きだった」
伊吹が言った。
「過去形、早い」
「じゃあ、好きだ」
「私も」
二人は最後まで飲みきらず、残ったソーダを砂へ流した。
青い泡は波にさらわれ、すぐ見えなくなった。
翌朝、伊吹は港へ、珠璃は駅へ向かった。
連絡先は消さなかったが、どちらからも連絡しなかった。
約束を延長すれば、相手の新しい日々へ夏の続きを要求してしまう気がした。
九月、東京の店で珠璃は青いソーダを見つけた。
手に取り、棚へ戻す。
あれは夏にしか売らない味だった。
終わったからこそ、薄まらずに残った恋の味だった。