九月一日の注文書
自動車部品メーカーの価格改定会議で、戸室澄香は町工場・東雲精機の営業二年目として末席に座っていた。議題はブレーキ用ばね二十万個の追加発注。元請けの獅子倉購買部長は、原材料高を理由に値上げを求めた東雲へ、逆に一個当たり十二円の値下げを迫っていた。
「応じなければ、来期の指名から外す」
机上の注文書には単価百八円。東雲が見積もった百二十円から、ちょうど一割低い。しかも適用日は九月一日となっていた。
澄香は注文書を裏返した。
「この書類を受け取ったのは九月十四日です」
獅子倉は、価格交渉は八月から続いており、合意日を遡らせただけだと言った。注文書には東雲社長の受領印もある。
澄香は印影を拡大した。受領印の右端に、薄く「9/14 18:22」と複合機の受信時刻が重なっている。東雲が押したのは十四日。その後、元請け側で注文日だけ一日に差し替えたのだ。
さらに九月一日から十三日までに納めた三万個について、すでに百二十円で検収済みだった。ところが差額三十六万円を「遡及調整金」として次回支払から引く決裁書が添付されている。
獅子倉は、継続取引のための協力だと笑った。
「下請けなら、先の仕事を見ろ」
澄香は八月末の材料仕入契約を出した。価格上昇を見込み、元請けの内示数量を根拠に東雲が鋼材を確保した書類である。内示書には獅子倉自身の電子署名があり、単価百二十円を前提とすると明記されていた。
「先の仕事を見るなら、先に出した約束も見てください」
社長は隣で青ざめていた。指名を失えば工場は苦しい。それでも澄香は自社印をケースへ戻した。
東雲精機では、その三十六万円が若手三人分の賞与に相当した。澄香は工場の給与予定表も示した。値下げを受ければ、翌月から夜勤手当を削るしかない。獅子倉は「経営判断だ」と切り捨てたが、内示数量を信じて確保した鋼材の保管票にも、元請け担当者の立会署名が残っていた。
元請け役員が遡及調整金の決裁欄から手を離した。九月一日まで戻された注文書は、九月十四日の時刻を越えられなかった。