乾かないままで
小牧凪がコインランドリーへ来たのは、金曜の午後十一時を過ぎてからだった。洗濯機が壊れたわけではない。白いブラウスの袖口に残った、薄いコーヒーの輪が気になったのだ。
通販会社で商品写真を整える仕事をしている凪は、画面の埃を一粒ずつ消す。髪の乱れを直し、布の皺を伸ばし、誰も気づかない影を薄くする。今週も三度、終電を逃した。月曜には、初めて自分が進行する撮影がある。このブラウスはそのために買った。袖口の染みなど机の下へ隠れるし、同僚なら誰も気づかない。それでも凪には、見えない場所の不備ほど大きく感じられた。今夜くらい早く眠ればいいのに、輪染みが残ったまま月曜を迎えるほうが落ち着かなかった。撮影の段取り表も、予備の小物も、すでに二度確認した。それでも不安になるたび、何か一つ直せるものを探した。直しているあいだだけは、自分に足りないものを考えずに済んだからだ。
乾燥機の前には、銀色の小さなスーツケースを椅子代わりにした女がいた。六十代くらいで、膝の上に色の違う靴下を何足も並べている。片方ずつしかないらしい。
「揃わないんですか」
凪がつい訊くと、女は靴下を見比べた。
「揃えないの。今日は赤と灰色」
冗談なのか本気なのかわからない。女は澄江と名乗り、町を移るたびに一度だけ、その土地のコインランドリーを使うのだと言った。理由は言わなかった。
乾燥が終わり、凪はブラウスの袖口をつまんだ。まだ少し冷たい。追加で十分、と硬貨を探す。
「乾かなかったものを一枚、そのまま連れて帰れますか」
澄江が訊いた。
「風邪をひきそうです」
「服が?」
凪は笑いかけて、やめた。澄江は赤と灰色の靴下を履き、銀色の鞄を引いて出ていった。助言も説明も残さなかった。
追加乾燥のボタンは、硬貨を入れれば光る。凪は百円玉を指で挟んだまま、壁の時計を見た。最終バスまで九分。いつもなら、濡れた袖口のためにタクシー代を払う。
乾燥機の丸い扉に、自分の顔がぼんやり映っていた。凪は硬貨を財布へ戻した。まだ温かい服の山から、袖口だけ冷たいブラウスを取り出し、畳まずに腕へ掛ける。
終了を待つランプが消えきる前に、凪は自動ドアを押した。夜気に触れた袖口が、手首へ小さく貼りついた。