予備の娘に心臓を
鵜飼澄佳が自分の予備肉体を注文したのは、四十歳の誕生日だった。
保険会社の説明では、それは人間ではなく「将来部品」だった。脳の発達は抑えられ、必要な臓器だけが澄佳と同じ速度で育つ。毎月の明細には、肝機能良好、角膜透明、心筋適合率九九・九七パーセント、と並んだ。
十二年後、澄佳の心臓が壊れた。
移植前面談で、管理AIが確認した。
「予備個体S2との対面を希望しますか。対面は罪悪感を増やし、治療継続率を低下させます」
希望しない、と答えるつもりだった。だが娘の梓が、「会わずにもらうほうが怖い」と言った。
白い病室にいたS2は、澄佳と同じ目をしていた。外見は二十歳ほどで、窓際に座り、録音端末を耳へ当てていた。
「何を聞いているの」
「駅です。ここから見えないので」
抑制教育のはずなのに、彼女は各地の発車ベルを集めていた。看護AIが退屈対策として与えた音源から、好き嫌いを覚えたらしい。
「心臓を取られるの、知ってる?」
S2はうなずいた。
「そのために生まれました。でも、海の駅の音だけ、まだ聞いていません」
澄佳は手術同意書を破った。
人工心臓なら余命は七年、移植なら三十年。医師も梓も泣いて止めた。S2だけが黙っていた。
「七年で十分」と澄佳は言った。「あの子の二十年を食べるより長い」
梓は母の選択を美談にはしなかった。「私を置いて死ぬかもしれないんだよ」と怒った。澄佳は謝り、怖いまま決めたのだと答えた。正しさではなく、三人の誰も物として扱わない未来を選びたかった。
保険会社との裁判に一年かかった。予備肉体に人格はないという規約を、澄佳自身が「人格がないなら同意も契約も成立しない」と争った。判決の日、S2には玻名という名前と、市民番号が与えられた。
退院後、三人で海辺の無人駅へ行った。発車ベルはなく、波と風だけが鳴っていた。
玻名は長く録音し、澄佳へ片方のイヤホンを差し出した。
胸の機械は不器用に脈打っていた。
その音が止まる日を、澄佳はもう怖がらなかった。自分の残り時間が、誰かの始まりと同じ長さで流れていると知ったからだ。