二つの受信時刻
鳴海依子が内定通知を開いたのは、二十九歳になる前日の十七時四十二分だった。
件名は「選考結果のご連絡」。添付された労働条件通知書には、企画職、試用期間三か月、来月一日入社とある。年収は今より少し上。けれど、惹かれたのは数字ではなく、面接で話した企画を「入社後、最初に任せたい」と書かれた一文だった。
十七時四十三分、社内チャットが鳴った。
〈来期の新規案件、リーダーをお願いしたい。明日話そう〉
送信者は部長だった。三年待った言葉だった。会議で提案を横取りされた夜も、補助役のまま表彰台の端に立った日も、これを言われれば報われると思っていた。
画面には二つの時刻が縦に並んだ。たった一分差なのに、別々の未来から届いたように見えた。
机の右には、角の擦れた社員証。左には、内定通知を印刷した白い紙。依子は交互に触れた。社員証は手の温度を吸い、紙はまだプリンターの熱を残していた。
部長のメッセージへ「承知しました」と打ち、消した。内定先への返信には「入社を承諾いたします」と打ち、やはり消した。
どちらを選んでも、選ばなかったほうを美しく思い出すだろう。残れば、あの会社なら変われたと考える。移れば、もう少し待てば評価されたと考える。正しい未来を見分ける方法など、最後まで見つからなかった。
翌日になれば、履歴書の年齢欄は一つ増える。以前の依子なら、その数字に急かされたふりをして、どちらかを選んだ理由にしただろう。けれど今夜だけは、誕生日にも世間の目にも決定権を渡したくなかった。
依子は部長へ、明日の面談で退職の相談をしたいと送った。それから内定承諾のメールを作り直した。理由も決意も長く書かず、指定された三行だけを埋めた。
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥に軽さではなく重さが落ちた。
これから失敗したとき、会社のせいにも、一分遅かったメッセージのせいにもできない。その重さを両手で受け取るように、依子は社員証を机の上で裏返した。