二つ目のボタンは青い糸
引っ越し前の衣装箱から制服が出てきた。汐見琴葉は、胸元の二つ目のボタンだけを留めている青い糸に指をかけた。ほかはすべて黒。高校の卒業式の日、那緒が家庭科室から勝手に持ち出した糸だった。
式が終わると、廊下では男子のボタンが冗談半分に奪われ、女子は花束とスマートフォンを抱えて笑っていた。琴葉は教室の窓際で、誰にも何も頼まれない自分の制服を脱ぎたくなっていた。
「動かないで」
那緒が椅子を寄せ、琴葉の胸元へ顔を近づけた。二つ目のボタンが、いつの間にか糸一本でぶら下がっていた。
「取れそうだった?」
「取られそうだった」
意味を尋ねる前に、那緒は青い糸を針へ通した。夕方の光で、その色だけが小さく光った。針先が制服を往復する間、琴葉は息を浅くした。好きだと言えば、卒業式が終わるより先に、二人の放課後まで終わる気がした。
縫い終えた那緒は糸を歯で切り、ボタンを一度引っ張った。
「これで、勝手には持っていかれない」
校門で別れるまで、二人はいつものように進路の話だけをした。集合写真では、花束に隠れた青い糸だけが、二人の間で交わされた秘密のように写っていた。
春から別々の町へ行き、連絡は少しずつ途切れた。那緒が結婚したという噂を聞いた夜、琴葉は一度だけ糸切り鋏を持った。けれどボタンを外したところで、言えなかった気持ちまで無かったことにはならないと思い、鋏を閉じた。あの言葉が冗談だったのか、別の意味を持っていたのか、琴葉はいまも知らない。それを知らないままでも、自分が誰を好きだったかは知っている。
隣の部屋から、同居人の泉が「裁縫箱、見なかった?」と声を上げた。新しい仕事用のコートのボタンが緩んだらしい。
琴葉は制服から手を離した。答え合わせのために過去へ戻りたいとは、もう思わなかった。青い糸を少しだけ切り、泉のコートを膝に載せる。
「黒じゃなくてもいい?」
そう聞くと、泉は笑って、「琴葉が選んだ色なら」と答えた。
琴葉は二つ目のボタンからではなく、いま目の前にある一つ目のほつれから縫い始めた。