二つ目のマグカップ

栗栖紗江が「結宇を失った三年間」を消したのは、悲しみに耐えられなかったからではない。耐えることしかできなくなったからだ。

施術の翌朝、紗江は久しぶりに空腹で目を覚ました。台所へ行き、戸棚から白いマグカップを出す。なぜか手はもう一つ、黄色いカップも取り出した。子ども用の、持ち手に小さな欠けのあるものだった。

誰のだろう。

考えても答えはなく、胸も痛まない。紗江は黄色いカップを戻し、白い方にだけコーヒーを注いだ。ところが牛乳を温めたあと、無意識に半分を黄色へ注いでいた。

家には、説明のつかないものが多かった。廊下の柱に並ぶ鉛筆の線。冷蔵庫に貼られた星形の磁石。玄関の低い位置に残る、泥のついた手形。紗江はそれらを不用品の箱に入れたが、翌朝にはいくつかが元の場所へ戻っていた。犯人は自分だった。夜中に起きて、戻しているらしい。

「記憶は消えています。習慣が残ることはあります」

医師はそう言った。紗江は、習慣とはずいぶん頑固な幽霊だと思った。

一か月後、黄色いカップを捨てる日を決めた。ごみ袋に入れ、口を縛り、集積所まで運んだ。帰り道、公園で転んだ女の子が泣いていた。紗江は駆け寄り、膝の砂を払い、なぜかポケットから星形の絆創膏を取り出した。

「これ、好き?」

女の子は泣きながらうなずいた。

その夜、紗江は集積所へ戻った。袋はまだあった。黄色いカップを拾い、丁寧に洗った。誰のものかは分からない。それでも、これを大切にしていた自分まで捨ててはいけない気がした。

翌朝、紗江は二つのカップを並べた。白にはコーヒー、黄色には温かい牛乳。向かいの椅子は空いている。紗江は泣かなかった。ただ、牛乳が冷める前に一口飲み、それからもう一口、ゆっくり飲んだ。

記憶のない愛は、行き先をなくしていた。

だから紗江は、その日から少しずつ、自分に向けて飲むことにした。

春になると、紗江は黄色いカップに小さな種を植えた。芽が出た朝だけ、理由のない「おはよう」が自然に口からこぼれた。