二人分の校了紙
印刷所の受付が閉まるまで、あと二十分だった。
橘絹乃は、雑誌の最終ゲラを抱えて自動ドアをくぐった。受付前には、先に来ていた冴木幸弥が立っていた。五年前、同じ編集部で付き合っていた人だ。
「間に合ったね」
彼は昔と同じ声で言った。
「仕事だから」
絹乃はゲラをカウンターへ置いた。今号を最後に雑誌は休刊する。校了印を押せば、二人が顔を合わせる理由もなくなる。
別れの原因は、その雑誌の新人賞だった。絹乃が描いた表紙案を、幸弥は自分の名で提出した。締切に間に合わせるためだった、とあとで説明した。絹乃の名を入れるつもりだった、とも。
受賞したのは幸弥で、絹乃は祝う側に回された。壇上で彼が頭を下げる写真は、今も会社の廊下に飾られている。絹乃はそこを通るたび、線を引いた自分の指先だけが透明になった気がした。
「これ、返したかった」
幸弥が古いスケッチブックを差し出した。問題の表紙案が、鉛筆の線のまま残っている。
「もう間に合わないよ」
「うん」
「訂正文を出しても、賞はあなたのまま」
「分かってる」
逃げ場のない受付で、印刷機の低い音だけが続いた。
「それでも、今号の奥付を見て」
幸弥が最終ゲラを開く。編集協力の欄に、絹乃の名があった。その横に小さく、五年前の表紙案についての訂正が入っている。幸弥自身が受賞者名の返上を申し出たことも。
「許してほしいとは言わない。好きだとも、今は言わない」
「その順番だけは覚えたんだ」
「遅すぎたけど」
受付係が、校了印を急かした。
絹乃は赤い判を持った。幸弥をまだ好きだと認めれば、盗まれたものまで美談にされそうで、ずっと言えなかった。
「間に合った、なんて言わないで」
「分かった」
「まだ何も戻ってない」
「うん」
インクと紙の匂いがした。徹夜の校了日に、二人で缶コーヒーを分けた頃と同じ匂いだった。嫌いになれなかった記憶ほど、彼女を長く黙らせた。
絹乃は奥付の訂正文を指でなぞった。
「でも、間に合わせたい。今度は、私の名前があるところから」
校了印を押したあと、彼女はスケッチブックを自分の鞄へ戻した。スマートフォンに残っていた幸弥の番号には、削除ではなく、明日の打ち合わせ時刻を入力した。