二人分の生姜焼き

 秋月柾人が父の部屋へ来たのは、更新に必要な古いパスポートを受け取るためだった。四年ぶりだったが、滞在予定は十分。靴も脱がずに済ませるつもりでいた。

「雨、強くなるぞ」

「駅まで走る」

「肉、解凍しちまった」

 孝志は返事を待たず、台所でフライパンを出した。離婚してから一人で使うには大きすぎる、黒い鉄のやつだ。窓を叩く雨脚が急に太くなり、スマホには沿線運転見合わせの通知が出た。

「キャベツ、切れるか」

「二十六を何だと思ってる」

「包丁を引くな。押せ」

「それ、昔も言ってた」

 言ったあとで、二人とも黙った。父の教え方はいつも命令形だった。箸の持ち方も、自転車の乗り方も、進路の決め方まで。

 柾人は千切りを始めた。孝志は生姜をすり、醤油と酒を目分量で入れる。砂糖を取ろうとした手を、柾人が止めた。

「りんご。母さんは、砂糖じゃなくてすりおろしてた」

「知ってる」

「知ってて変えたのか」

「もう、あの味にする必要はないと思った」

 油が爆ぜた。柾人はその音に紛らせて、「勝手だな」と言った。父は否定しなかった。肉を返す手だけが少し遅れた。

 二人で皿を運び、向かい合って食べた。味は母のものでも、父のものでもなかった。少し辛く、肉は一枚だけ焦げていた。孝志は焦げたほうを自分の皿に寄せた。

「仕事は」

「辞めた」

「そうか」

「理由は聞かないのか」

「聞いてほしい顔になったら聞く」

 腹が立つ言い方なのに、柾人は二口目を飲み込めた。

 運転再開は翌朝だという。孝志は押し入れから布団を引っ張り出し、昔の部屋ではなく居間に敷いた。柾人が「一晩だけだから」と言うと、「分かってる」と背中を向けた。

「朝飯はいらない」

「昔から朝に弱いだけだろ」

「四年分、知らないくせに」

「なら明日の一日分から覚える」

 食器を洗い終えた父は、炊飯器の蓋を開けた。残り米を量り、水を足し、予約ボタンを押す。

 表示は午前六時十分。炊飯量は、二合だった。