二人目の筆圧

蛭川岳矩は二十七歳の筆跡認証エンジニアだ。郷土資料館から、峡間村の旧旅籠「藤綱屋」に残る宿帳を読み取れないかと頼まれた。

帳面は明治から昭和まで百冊。宿泊者は氏名、住所、職業を毛筆で記している。村では、旅人の字には身体から離れた「手影」が宿り、本人より先に帰ってくることがある、と説明された。

作業初日の共有チャット。

館員:注意書き、見ましたか。

岳矩:表紙裏のやつですね。

館員:《自分の署名の下に同じ字が現れても、二人目の欄を指でなぞってはいけない》

岳矩:民俗資料として記録します。

午後、昭和三十三年の頁に「蛭川岳矩」とあった。住所は現在の彼のマンション。生年月日より四十年以上前で、字形まで普段の電子署名と同じだった。

岳矩は比較用タブレットを開いた。墨の濃淡だけでは判断できない。指先で線を追えば、紙の凹凸から筆圧を取れる。迷ったのは数秒だった。自分の名の一画目から最後まで、一度だけ人差し指でなぞった。

紙の下で、もう一本の指が逆向きに動いた。

岳矩は手を引き、頁をスキャンした。画像には一人分の署名しかない。館員へ「見間違い」と送って、その日のうちに村を出た。

翌朝、会社の認証サーバーから障害通知が届いた。岳矩の電子署名だけ、同時刻に二地点から入力されている。片方は東京の自宅。もう片方の位置情報は峡間村だった。

念のため会社の監視映像を開くと、午前三時の無人オフィスで署名端末のペンがひとりでに動いていた。筆順はすべて逆なのに、完成した字だけは岳矩のものだった。操作者欄は《藤綱屋・先客》。自宅の郵便受けには資料館へ置いてきたはずの吸取紙があり、二本の人差し指で同時に押した凹みが残っている。指紋認証の履歴も二系統に分かれ、片方は岳矩より四十年早く登録されたことになっていた。

管理画面で片方を削除しようとすると、スマートフォンが指紋を要求した。触れる前に認証済みの音が鳴る。

画面には短く表示された。

《筆者二名を統合しました。以後、先に署名した方を本人として扱います》