二十三時十四分の非常停止
二十三時九分、彦坂呈吾はホームの時計を見た。残された巻き戻しは、一回だけだった。
弟の皓生が赤いICカードを改札へ当てる。
「兄貴、先に帰れよ」
五分後、酔客が線路へ落ちる。皓生は迷わず飛び降り、男を押し上げた直後、最終電車にはねられる。呈吾が何度腕輪を叩いても、始まりは同じ二十三時九分だった。
最初は弟の腕をつかんだ。皓生は振りほどき、別の階段からホームへ戻った。次は駅員へ知らせた。酔客は保護されたが、今度は子どもの落とした靴を拾おうとして皓生が線路へ下りた。非常停止ボタンも試した。ボタンは押された記録だけ残し、信号連動の不具合で列車は止まらなかった。
成功条件は一つ。二十三時十四分二十秒より前に、運行表示を〈全線停止〉へ変えること。
呈吾は鉄道制御会社の技術者だった。鞄のノートPCには、明朝納品する新信号プログラムの唯一の復号鍵が入っている。それを失えば大型契約も、自分の職も終わる。
皓生がまたカードを当てた。
「兄貴、先に帰れよ」
「そうする」
呈吾は笑い、ホームへ着く前に立入扉をこじ開けた。警報が鳴る。線路脇の検知器へ、ノートPCを投げ込んだ。火花とともに試験用鍵が制御網へ誤認され、侵入防止機能が全区間の電源を落とす。
二十三時十四分。最終電車はトンネル内で止まった。時間は戻らない。
駆けつけた警備員に押さえられながら、呈吾は弟が酔客をホームへ引き上げるのを見た。皓生は礼も言わず、理解できない顔でこちらを見ていた。
警備室で事情を聞かれた呈吾は、不具合を知りながら納期を優先した会社の判断と、自分が試験記録を書き換えた事実まで話した。黙れば器物損壊だけで済むかもしれなかったが、同じ信号が別の駅で人を殺す未来を残す気はなかった。ガラス越しに皓生が何度も頭を下げた。呈吾は一度も目を合わせなかった。弟に借りを背負わせるためにPCを投げたのではない。
翌朝、呈吾の社員証は失効した。証拠袋には、焼けたPCの破片と、弟が落とした赤いICカードが並んでいた。