二回はいいえ
二回は、いいえ
訪問看護師の三朝弓香が百目鬼惣吉の家を初めて訪ねると、娘を名乗る紗英が出迎えた。
惣吉は脳梗塞の後遺症で寝たきりになり、言葉も手足もほとんど動かせないという。
「質問には、まばたき一回で『はい』、二回で『いいえ』と答えます」
紗英は父親の代わりに病歴も生活状況も説明した。
弓香が血圧を測りながら尋ねる。
「今、痛いところはありますか」
一回。
「昨夜は眠れましたか」
二回。
「また夜中に騒いだのね」
紗英は苦笑し、処方されたという眠り薬を用意した。薬袋には病院名も患者名も印刷されていない。
清拭の湯を取りに、紗英が部屋を出た。
惣吉はすぐ、枕の下へ視線を動かした。
弓香が手を入れると、運転免許証が一枚出てきた。
百目鬼紗英、四十一歳。
顔写真は、いま台所にいる女とは別人だった。
「この人が本当の娘さんですか」
一回。
「いまの女性は、家族ではありませんか」
一回。
「警察を呼んでほしいですか」
一回。
免許証の裏には、震えた字で電話番号と〈床下〉と書かれていた。弓香がスマートフォンを取り出すと、廊下の床板が小さく鳴った。誰かが下から叩いたような音だった。
紗英を名乗る女が湯を運んできた。
「何を見つけたんですか」
弓香は免許証をポケットへ隠し、車に清拭用品を忘れたと答えた。
「あとでいいでしょう」
女は部屋の外から玄関の内鍵を掛けた。
弓香は落ち着いたふりをして看護記録を開いた。テーブルの引き出しからペンを取ろうとすると、三本の職員証が入っていた。どれも別の訪問看護ステーションのものだった。写真の女性たちは、最近この地域で行方不明になった看護師として、事業所の回覧に載っていた。
「前の方たちは、記録を書かずに帰ろうとしたんです」
女が背後から言った。
「家族の介護状況は良好、と書いてください」
弓香は惣吉を見た。
「この人は、私を帰すつもりがありますか」
惣吉は、ゆっくり二回まばたきをした。
床下からも、二度だけ音が返ってきた。
女はその音を聞いて、笑顔のまま台所の音楽を大きくした。