二本の鍵は同じ重さ
二十九歳の誕生日まで、あと十二日だった。
郵便受けに、青い封筒と白い封筒が重なっていた。青は東京の部屋の更新案内。白は故郷の海辺にある古い共同住宅「潮路荘」の入居申込書だった。
潮路荘は、去年から若い住人を募っている。家賃は東京の三分の一。代わりに、月に一度、共有廊下の掃除当番がある。紹介してくれたのは高校時代の友人、未砂だった。
〈戻っておいでとは言わないよ。ただ、空室は今月まで〉
その一文が、やさしいぶんだけ卑怯に見えた。
机の上には二本の鍵がある。黒い樹脂のついた東京の鍵と、内見でもらった真鍮の仮鍵。東京の鍵は軽く、何千回も回した角が丸い。真鍮の鍵は重く、まだ私の手の脂さえ知らない。
帰れば何かが始まる、と考えるのは簡単だった。けれど故郷は、立ち止まった人を慰める背景ではない。潮の匂いも、夕方五時の放送も、私がいなかった十年ぶんだけ変わっている。戻ったところで、昔の続きにはならない。
では東京に残れば続きになるのか。更新された二年間は、何を続ける時間なのか。
二つの部屋で迎える夜を想像した。東京では、隣室の洗濯機が壁越しに回り、コンビニの白い光がカーテンに差す。潮路荘では、廊下に砂が上がり、風の強い日は窓枠が鳴るという。便利と不便、孤独と近さは、きれいに二手へ分かれてくれなかった。どちらにも眠れない夜があり、どちらにも朝は来る。
私は青い封筒の金額を指でなぞった。更新料、保険料、事務手数料。白い申込書には、緊急連絡先の欄より大きく「この町でしてみたいこと」とある。
書けることがなくて、しばらく空欄を見た。
やがて私は、「朝、海まで歩く」とだけ書いた。夢と呼ぶには小さすぎる。移住理由としては、きっと頼りない。けれど、誰かに評価されるための答えではなかった。
黒い鍵を青い封筒に入れ、返送用の封をした。真鍮の鍵は鞄にしまわず、掌の中に残した。
正しい扉を選んだとは思わない。
ただ、次にこの鍵が回らなかったとき、町のせいにはしないと決めた。