二本目を持つ理由

榊葉澪の母は、晴れた日にも折り畳み傘を二本持ち歩いた。

「一本は自分の。もう一本は、まだ会っていない誰かの」

子どものころの澪は、その言い方が好きだった。けれど母が亡くなってからは、遺された大きな鞄も、底に転がる二本の傘も、重たいだけだった。

高校へは一本で十分だ。そう思いながらも、澪は二本とも取り出せなかった。減らせば、母の習慣まで捨てるような気がした。

梅雨入り前のある日、下校途中に急な雨が降った。駅前の屋根の下で、若い父親が立ち尽くしていた。片腕には眠った幼児、もう片方の手には薬局の袋と壊れたビニール傘。風にあおられ、傘の骨が白く折れている。

タクシー乗り場には長い列。子どもは熱があるのか、頬を赤くしていた。

澪は鞄から一本を出した。

「これ、使ってください」

父親は首を振った。

「でも、君が濡れるでしょう」

澪はもう一本を見せた。

「余ってるんです」

差し出したのは、母が使っていた紺色の傘だった。持ち手に小さな傷があり、内側には、澪が幼いころ貼った星形のシールが残っている。

手放した瞬間、胸が痛んだ。

父親は何度も礼を言い、子どもを傘の内側へ包むようにして歩き出した。眠っていた子が目を開け、紺色の天井の星へ指を伸ばした。

「おほしさま」

その声を聞いたとき、澪は初めて、母の傘が自分の手元からなくなったのではなく、誰かの雨を止めているのだと思った。

翌朝、駅の交番に傘が届けられていた。持ち手には紙袋が結ばれ、中に子どもの描いた青い星と短い手紙が入っていた。

〈昨夜、無事に病院へ着けました。返さなくてもいいと言われた気がしましたが、娘が「お星さまを返す」と申しました〉

青い星は、紙いっぱいにはみ出していた。裏には、覚えたばかりらしい字で〈かさのおねえさん〉と書いてある。澪はそれを、母の写真の横へ置いた。

その足で雑貨店へ寄り、安い折り畳み傘を一本買った。

母の鞄へ入れる。

自分用と、まだ会っていない誰か用。

鞄の重さは変わらなかった。

けれど今度は、それを母の形見ではなく、自分の習慣として肩にかけた。