二脚目の椅子
工房には、いつも二脚目の椅子が伏せてあった。
著名な彫刻家が失踪した夜、私はその助手から事情を聞いた。助手は灰色の作業着に丸い眼鏡を掛け、師の机には決して近づかなかった。机の上には冷めた珈琲が一杯だけあり、脇の灰皿には吸いかけの葉巻が二本、同じ長さで並んでいる。
「先生は夕方、収集家と口論しました。そのあと裏口から出たきりです」
収集家は翌朝、運河で死体となって見つかった。後頭部に石膏像で殴られた痕があり、彫刻家の指紋が凶器に残っていた。助手は、師が左利きで、怒ると葉巻を途中で揉み消す癖があると説明した。
助手には、事件時刻に画材店へいたという証言があった。店員は灰色の作業着と丸眼鏡を覚えている。一方、隣家の老婦人は同じ時刻、工房の奥から彫刻家の低い声を聞いた。二人は別々の場所にいたことになる。録音ではないかと尋ねると、老婦人は「咳まで生々しかった」と首を振った。
過去の展覧会を調べても、彫刻家は衝立の向こうで声だけを聞かせ、作品の説明や契約は助手が引き受けていた。二人が並ぶ写真は一枚もなかった。誰もそれを不自然とは思わなかった。天才には気難しさがつきものだからだ。
壁には師の写真が何枚も飾られていた。ただし、どれも横顔か、帽子を目深にかぶった姿だった。助手に理由を尋ねると、「先生は正面から撮られるのを嫌いました」と笑った。その笑い方だけが、妙に写真の横顔と似ていた。
私は伏せられた椅子を起こした。一本だけ脚が短く、座れば必ず右へ傾く。床の粘土には、同じ方向へ傾いた靴跡が一人分しかない。もう一つ気になったのは、助手の右耳の後ろに付いた白い粉だった。左利きの彫刻家なら、石膏を払う手は右耳へ届きやすい。
助手は眼鏡を押し上げた。
「先生を疑っているんですね」
「ええ。ですから、先生に聞きます」
鑑識から届いた照合結果を机に置いた。凶器の指紋は失踪した彫刻家のものではない。助手として登録された指紋と一致していた。そもそも彫刻家名義の公的写真は一枚もない。
助手は丸眼鏡を外し、机の葉巻に火をつけた。
「二脚も要らなかったんですがね」
工房には最初から、座る人間は一人しかいなかった。