五センチだけの夕方
日曜の午後五時十二分、久世あさぎは、目覚ましではなく喉の渇きで目を覚ました。
枕元のスマートフォンには、午前九時、十時、十一時半に止めたアラームの履歴が並んでいた。今日は駅前の美術館へ行くつもりだった。前売り券の画面を保存し、昨夜のうちに黒いワンピースを椅子へ掛け、帰りに寄る喫茶店まで地図に印をつけていた。
カーテンの向こうはもう夕方だった。閉じた布の端だけが橙色に光っている。あさぎは布団の中で、知人の投稿を三つ見た。朝市の花束、川沿いのランニング、白い皿に盛られたパンケーキ。自分の一日は、画面を暗くした途端、何も入っていない箱のように思えた。
台所へ行くと、昨日のレシートが床に落ちていた。牛乳、クロワッサン、入浴剤。休日を丁寧に過ごすために買ったものばかりだった。クロワッサンは袋の中で少ししんなりし、牛乳は開けないまま冷えている。
美術館は六時までだった。急げば閉館前に着けるかもしれない。顔を洗って、服を着て、電車に乗って、三十分だけ絵を見る。そう考えた瞬間、身体の奥がまた布団へ沈むように重くなった。
あさぎは前売り券の画面を閉じた。買ってはいなかったのだから、損はしていない。それでも「行かなかった」という事実だけが、胸の上に薄い板のように残った。
クロワッサンを皿に移し、温めずにかじった。層はつぶれていたが、端にはまだバターの匂いがした。食べながら、カーテンを五センチだけ開ける。細い夕日が床を横切り、脱ぎっぱなしの靴下まで金色にした。
外出したことにはならないし、休日を取り戻したことにもならない。あさぎはその光を写真に撮らず、椅子のワンピースをクローゼットへ戻した。
保存していた地図には、〈休日に行きたい場所〉というフォルダ名がついていた。あさぎは美術館の印を消しかけて、やめた。行かなかった場所は、もう行けない場所ではない。今日の欄から来週の欄へ移すほどの元気もなかったので、印は同じ場所に残した。
今日は一日を使えなかったのではなく、夕方だけ受け取ったことにする。五センチの窓の前で、残りのクロワッサンをもう一口食べた。