五分前の改札
七時五十五分。麦倉鋭人のスマートチケットが、掌の中で微かに震えた。
《遅刻補償を開始します。八時までに中央改札を通過してください》
ホームの放送が重なる。
「駆け込み乗車はおやめください」
最終面接へ向かう列車は八時ちょうど。会社から届いた条件は、八時までに中央改札を通過できれば面接参加、できなければ辞退扱いだった。鋭人は階段を三段飛ばしで下りた。清掃カートを避け、切符を落とした学生をまたぎ、中央改札へ滑り込む。表示は七時五十九分五十八秒。
赤いランプ。入場記録エラー。
次の瞬間、七時五十五分だった。
二周目は東口を回った。三周目は学生より先に切符を拾い、投げ返した。四周目は清掃員へ怒鳴って道を空けさせた。差分を積み上げるたび、改札までの秒数は縮んだ。
「駆け込み乗車はおやめください」
同じ放送。違うのは、母から教わったはずのネクタイの結び方を思い出せなくなっていたことだ。
チケットの隅に、小さな文字が流れた。
《補償時間は利用者の長期記憶から精算されます》
鋭人は走りながら笑った。たかが五分だ。職を得れば、失ったものは買い戻せる。
八周目、母の顔からほくろの位置が消えた。十二周目、葬儀で読んだ手紙の文面が消えた。十五周目、病室で最後に何を言われたかが、きれいな空白になった。
足を止めれば補償契約は解除できる。ただし解除後は同じ列車へ再予約できない、と表示されていた。だから鋭人は、立ち止まることだけを失敗と呼び、失った記憶を必要経費と呼び続けた。
それでも十六周目には、七時五十九分五十六秒で改札へ着いた。スマートチケットをかざす。青い光が点き、扉が開きかける。
「駆け込み乗車はおやめください」
その声だけが、なぜか母の声に似て聞こえた。
鋭人は腕を引いた。開きかけた扉が閉じる。チケットを二つに折り、さらに折って、読み取り部を爪で割った。
《補償契約を破棄します。失われた記憶は復元されません》
八時を知らせる電子音が鳴った。列車のドアが閉まり、最終面接も、年収も、東京で借りるはずだった部屋も遠ざかっていく。
時計は八時一分になった。
鋭人は立ち尽くし、もう思い出せない母の最後の言葉の代わりに、破れたチケットをポケットへしまった。