交番までの八百メートル

塾帰りの鍬形透真は、坂道のベンチの下で茶色い財布を拾った。

中には二千三百円、病院の診察券、それから、若い夫婦が海辺で笑っている古い写真が入っていた。透明なポケットには、震える字の紙片もあった。

〈道が分からなくなったら、交番でこの番号へ電話してください〉

雨が降り始めた。交番までは八百メートル。反対へ行けば家はすぐだった。翌日は試験で、母からも早く帰れと言われている。

透真は一度、財布をベンチへ戻しかけた。

そのとき、祖父の顔が浮かんだ。物忘れが増えた祖父から家族が自転車の鍵を取り上げた日、祖父は「もう町の住人じゃないみたいだ」と笑った。それ以来、ほとんど外へ出ていない。

透真は財布を制服の内側へ入れ、走った。靴へ水が入り、問題集の角まで濡れた。途中で二度、近道をしようと思ったが、知らない家の財布を持ったまま細い路地へ入るのが、なぜか後ろめたかった。

交番には、乙津國枝という老婦人と、その娘が来ていた。國枝は濡れた髪のまま、何度も「ごめんなさい」と繰り返している。娘は怒っているのではなく、怖がっていた。

「もう一人で出かけるのは無理よ」

國枝は財布を受け取ると、現金より先に写真を確かめた。

「主人と初めて旅行した日のものなの。顔を忘れる日が来ても、この写真を見れば、一緒にいたことは分かるから」

娘が唇をかんだ。

透真は、財布を拾った場所を伝えた。いつもの散歩道から一本外れただけで、ベンチから交番まで一本道だったことも話した。

巡査が地図を出し、道を赤い線でなぞった。娘はしばらく黙ったあと、國枝へ言った。

「次は私と一度歩こう。目印を増やして、それから考えよう」

國枝は財布を胸へ抱き、透真に頭を下げた。

「拾ってもらったのは財布だけじゃないみたい」

帰り道、雨は上がっていた。母からは叱られたが、事情を聞くと黙って靴へ新聞紙を詰めてくれた。

翌日、透真は祖父の家へ行き、自転車の鍵を差し出した。祖父が驚くと、透真は言った。

「一人で乗るのが心配なら、俺も走る。まずスーパーまで」

交番までの八百メートルは遠回りだった。

けれどその遠回りが、二人の老人へ、もう一度町の道を返した。