会議室に響いたナイス
経理部の菱川由良は、返事まで地味だった。
「承知しました」
「確認します」
会社で使う言葉は、その二つでほとんど足りる。
けれど土曜の夜、由良は〈ユラギ船長〉になる。宇宙船を直しながら怪物から逃げる協力ゲームで、仲間が窮地を抜けるたび、「ナイス、乗組員!」と叫ぶ。登録者は三万人。顔は出さず、声も少し低く加工していた。
月曜の予算会議で、由良はノートパソコンを大型モニターにつないだ。表計算を開いた瞬間、画面右下に通知が滑り込む。
《切り抜き動画が公開されました――ユラギ船長、絶叫からの神救助》
消そうとして、マウスを落とした。クリックされた通知から動画が開き、会議室のスピーカーいっぱいに自分の声が響く。
『ナイス、乗組員! 生きて帰るまでが遠征だよ!』
静寂のあと、誰かが吹き出した。
「菱川さん、船長なんだ」
「三万人って、うちの取引先より多くない?」
耳の奥まで熱くなった。パソコンを閉じようとしたとき、部長の葛西が資料を一枚めくった。
「会議と関係のない私生活を、本人の許可なく品評しない。数字の確認に戻ろう」
声はいつものように平らだった。それ以上、誰も触れなかった。
会議後、葛西に呼び止められた。副業規定の話だと思い、由良は先に頭を下げた。
「収益は申告済みです。会社名も出していません」
「知っている」
葛西は小さく咳払いした。
「娘が、あなたの配信を見ている。去年から学校へ行けない日が増えてね。土曜だけは、部屋から笑い声がする」
由良は何も言えなかった。
「礼を言うつもりも、続けろと命じるつもりもない。ただ、さっきの声を恥じる必要はないと思っただけだ」
デスクへ戻ると、社内プロフィールの更新画面が開いたままだった。去年の由良は、趣味の欄に「ゲーム」とだけ書いている。
カーソルを合わせ、二文字を書き足した。
〈趣味:ゲーム配信〉
保存を押した瞬間、隣席から小さな声がした。
「船長、午後の仕訳もお願いします」
からかう調子ではなかった。由良は顔を上げ、初めて会社で少しだけ笑った。
「ナイス。任せて」