借方と貸方の消えた銀貨
王領税務所の金庫から、銀貨百六十枚が消えた。
「鍵を持っていたのは荷運びの少年だけだ」
主任書記はそう決めつけ、少年の手首に縄を掛けた。昨日雇われたばかりの絃真が口を挟むと、鼻で笑われた。
絃真がこの世界へ落ちて三か月、剣も魔法も使えない彼は「線を引くだけの無能」と呼ばれていた。税務所でも任されたのは墨を磨る仕事だけだ。だからこそ、主任書記は彼なら何も気づかないと思ったのだろう。
縄を掛けられた少年の母は、戸口で銀貨一枚ずつ返すと泣いていた。百六十枚など、家を売っても足りない。絃真はその声を聞きながら、削られた帳簿の頁を一枚も飛ばさず写した。主任が紙を奪おうとするたび、所長の前へ左右の小計を読み上げる。十枚、五十枚、百枚。差額は最後まで小さくならず、むしろ犯人の指紋のように百六十へ収束していった。
「異国の数字書きに何が分かる」
少年は病気の妹へ薬を買うため、夜明けから荷を運んでいた。盗人の烙印を押されれば、家族ごと領地を追われる。主任書記は日没までに自白しなければ指を一本ずつ折ると告げ、役人たちも見て見ぬふりをした。
絃真は前世で小さな会社の経理をしていた。頼んだのは紙一枚と、帳簿を左右に分ける一本の線だけだった。
領民から集めた税は右に、金庫へ入った銀貨は左に。薪代を払えば費用を左に、減った銀貨を右に。残っていた受領証を一枚ずつ並べ直す。
夕鐘が鳴る前に、左右の合計が出た。
左、一万二千四百八十枚。右、一万二千六百四十枚。
差は、消えた銀貨と同じ百六十枚。
「盗難なら、左右は同じままです。誰かが片側だけ消した」
絃真は税収欄の薄い削り跡に炭粉を擦った。下から、百六十という数字と主任書記の筆癖が浮かぶ。税を受け取った記録だけ残し、金庫へ入れた記録を削ったのだ。
主任書記の顔から血の気が引いた。机の二重底を衛兵が外すと、革袋が落ち、銀貨が床へ散った。数えるまでもなく、封には「百六十」と書かれている。
縄を解かれた少年が泣きながら頭を下げた。所長は主任の椅子を蹴り倒し、絃真の前へ帳簿束を置く。
「明日から、この税務所の帳簿はすべて左右に分けろ」
そして空いた主任席を指した。
「そこへ座るのは、お前だ」