値札のない水
十二席しかない昼のビストロへ、権藤雅臣は三人分の声で入ってきた。雨に濡れた傘を畳まず、予約札のない窓際へ座ろうとする。
「そこは先約がございます」
真壁千鶴が案内すると、権藤は名刺入れを卓上へ放った。
「俺をどかしてまで座らせる客がいるのか?」
窓際では、白髪の女性が一人、静かにスープを飲んでいた。
「炭酸水。銘柄は聞かなくても分かるだろ」
千鶴がボトルを示すと、ラベルを見るなり鼻を鳴らした。
「客の格に合わせる頭もないのか。まあいい。この店も長くない。俺がこの一画を買うからな」
権藤は鞄から再開発図を広げ、皿を置く場所まで奪った。銀行の融資は決まった、古い店は立ち退かせる、若い店員など替えはいくらでもいる。電話の相手にも、わざと店じゅうへ聞こえる声で「全テナント了承済みだ」と繰り返す。
千鶴は皿を少しずらし、「建物の所有者からは、来年度の契約更新についてご連絡をいただいております」とだけ答えた。
「口答えか?」
「事実の確認です」
「その事実を、俺が変えるんだよ」
厨房から料理長が顔を出しかけたが、千鶴は小さく首を振った。ここで言い返せば、権藤は自分を被害者に仕立てる。彼女は最後まで通常の客として扱い、注文変更も領収書の宛名も一つずつ復唱した。
デザートのころ、白髪の女性が会計を頼んだ。千鶴が伝票を置くと、女性は小さなカードを添えた。権藤は横目で見て笑う。
「割引券でももらったか? こういう店は常連だけ甘やかす」
女性は答えず、千鶴に「今日もおいしかった」と言って出ていった。
直後、権藤の電話が鳴った。
最初は笑顔だった。やがて背筋が伸び、フォークが皿に落ちた。
「待ってください。融資承認は今朝――はい、申請書には全テナントと合意済みと……それは、交渉の見込みを含めた表現で……」
千鶴は窓際の椅子を整えた。座面に、先ほどのカードが一枚残っている。
地方創生銀行 融資審査委員長 久慈川苑子。
電話の向こうの声が、静かな店内にも漏れた。
『委員長ご本人から、重大な虚偽記載を確認したとの報告がありました。融資は否決です』