停止ボタンの右下
橘高澄香が古いMVを再生すると、右下の少女だけが曲より半拍早く口を開いた。
イントロの無機質なキックが鳴る。八年前に撮られた、地下駐車場のワンカット映像。中央では歌い手が黒いドレスで踊り、壁際のエキストラたちは同じタイミングで顔を伏せる。だが、赤い靴の少女だけはカメラを見ていた。音声にはない四文字を、唇だけで形づくる。
「止めないで」
澄香は再生を止めた。
少女は、撮影翌日から行方が分からなくなった友人だった。あの夜、友人は体調が悪いと言い、床にしゃがみ込んだ。新人の撮影助手だった澄香は監督を呼んだが、「照明を組み直す金はない」と追い払われた。完成版では倒れた姿ごと黒く塗りつぶされ、失踪は本人の無断退職として処理された。友人のロッカーには吸入器と、飲みかけの水だけが残っていた。澄香は事情を聞かれても、監督の名を出せず、「途中で帰ったと思う」と答えた。その一言が八年間、クリック音のように耳へ残っていた。
Aメロへ戻すと、少女の位置が一歩だけ近づいていた。編集データにそんなカットはない。二度目のサビ前、彼女は今度は指で停止ボタンを隠すように四角を描いた。自動字幕が勝手に立ち上がる。
「止めないで」
澄香は指を離した。
サビで低いベースが膨らみ、駐車場の蛍光灯が一列ずつ消える。少女は壁にもたれ、胸を押さえた。中央の歌い手は踊り続け、スタッフの影が彼女を画面外へ引きずる。澄香の記憶では、その場面は撮られていないはずだった。
最後の一音が伸びる間、波形の下に隠れていた現場音トラックが開いた。咳、靴音、誰かの「救急車を」という声。その上へ、監督の怒鳴り声が重なる。
「止めないで。カメラを回せ」
少女は助けを求めて再生を続けさせたのではなかった。死にかけた一人を映像のノイズへ変えた、あの命令を最後まで聞かせようとしていた。
澄香は完成版ではなく、現場音付きのデータを送信した。送信先は配信サイトではない。警察と、少女の家族だった。
画面の右下で、赤い靴が初めてフレームの外へ歩き出した。