停電のカレー
瀬尾航平がシェアハウス「灯台」に戻ると、玄関から玉ねぎの匂いがした。
ただし、廊下は真っ暗だった。夕方の落雷で一帯が停電しているらしい。共同冷蔵庫の前では、霧島廉がスマートフォンのライトを口にくわえ、溶けかけた冷凍肉を抱えていた。
「明日まで待ったら全滅だ。カレーにする」
「俺は食わない」
「知ってる。だから切る方をやれ」
航平は三日前、来月で出ると宣言した。勤め先を辞めたことも、家賃が一月遅れることも言わずに。廉とはそれ以来、必要な連絡しかしていない。
ガスは使えた。二人は暗い台所で、傷みやすいものから鍋へ放り込んだ。鶏肉、しめじ、半端なトマト、誰かの冷凍ブロッコリー。包丁の音だけが続き、時々、ライトがずれて指先を照らした。
「人参、小さすぎ」
「火が通る」
「お前、昔から逃げ道だけ細かく作るな」
航平の手が止まった。廉は鍋を見たまま、続けなかった。
ルーを入れたところで、二階から住人たちが皿を持って下りてきた。停電を面白がる者も、不機嫌な者もいたが、誰も航平の退去話には触れない。一番年下の住人が福神漬けを探し、別の誰かが辛口を薄める牛乳を出した。普段はばらばらの帰宅時間が、暗い台所にだけ揃っていた。輪の外に立つ航平へ、廉がしゃもじを差し出した。
「炊飯器、残り七分で切れた。底は硬い。盛りつけ担当」
「だから食わないって」
「六人分だ。お前の分は数えてない」
実際に皿は六枚だった。航平を除けば住人は五人しかいない。
電気が戻った瞬間、台所の白い光に全員が目を細めた。鍋の横には、欠けた青い皿が一枚残っている。かつて航平が百円ショップで買い、誰にも使わせなかった皿だ。
食後、航平は退去届を出そうと共有パソコンを開いた。画面の横の当番表に、新しい文字が増えていた。
〈来週 米を買う人――航平〉
消そうとして、指が止まる。代わりに彼は、鍋底に残った一人分を青い皿へよそい、ラップをかけた。冷蔵庫が再び冷え始める音の中、その皿を自分の棚ではなく、朝食用と書かれた共用段へ置いた。