先に本人だった男

戸隠柊司は毎朝、改札の青い輪へ顔を向ける。まばたきも、首振りもいらない。歩幅を緩めるだけで本人確認が終わり、運賃が落ちる。今日もそのつもりだった。

輪が赤く閉じた。

《認証済みのため通過できません》

柊司は立ち止まった。画面には自分の顔と、午前五時四十三分という時刻が出ている。認証地点は福岡。彼は東京の六畳間で、五時四十分まで眠っていた。

駅員は端末を見て、半歩下がった。

「一日一本人の規則です。最初に通った個体が、その日の本人になります」

ディープフェイク対策として導入されたルールだった。先着の認証だけを本物とし、同じ顔が二度現れたら後発を偽物とする。単純だから安全だと、柊司も思っていた。

「盗まれたんです。俺の顔が」

「偽物は、みんなそう言います」

駅員の指が通報ボタンへ伸びた。柊司は走った。スマートグラスを外し、帽子を深くかぶり、現金の残る古い券売機を探した。だが財布の中には硬貨が百八十円しかない。会社までは届かない。

そのとき、恋人の実叶から着信が来た。

『もう帰ってるの?』

「何を言ってる。今、駅だ」

『だって、玄関の前にいるよ』

通話の向こうでドアの解錠音がした。実叶が笑う。

『顔認証も通ったし。今日は早かったんだね』

柊司は叫んだ。しかし映像には、自分と同じ顔が映っていた。寝癖も、左眉の傷も、実叶だけが知るはずの照れ笑いも同じだった。そいつは画面越しの柊司を見て、わずかに首をかしげた。

「実叶、ドアを閉めろ!」

『どうして? あなた、ここにいるのに』

背後で靴音が重なった。駅員と警備ドローンが追いついていた。

柊司の端末に通知が届く。

《戸隠柊司を騙る合成個体を検出しました。本日の本人から保護申請が提出されています》

映像の中の男が、実叶の肩を抱いた。

「大丈夫。偽物は、もう捕まるよ」

その声まで、柊司より柊司らしかった。

柊司は実叶との合言葉を叫んだ。だが映像の男は半秒早く続きを答えた。昨夜の寝言まで学ばれていた。警備ドローンの遮音膜が、残った言葉を彼の口の中へ閉じ込めた。