入力中のまま、春
彼が部屋を出た夜、私たちは「行ってきます」も「行ってらっしゃい」も言わなかった。
春から北の支社へ行く話が出ている。彼がそう告げたのは、夕食のカレーが冷めかけた頃だった。
「どうするの」
「もう決めたから」
その一言が、二人で暮らした四年を、彼一人の荷物にされたように聞こえた。
私はスプーンを置き、「そう」とだけ答えた。彼は何か言いかけ、夜勤用の鞄をつかんだ。
ドアが閉まってから、スマートフォンに打った。
〈勝手にすれば。もう帰ってこなくていい〉
送信ボタンの青さが腹立たしくて、押す代わりに全文を消した。
午前一時十一分、彼から届いたのは、
〈朝、帰ったらちゃんと話す〉
それだけだった。
朝になっても、彼は帰らなかった。
濡れた交差点で配送車が横転し、信号待ちの彼を巻き込んだと、知らない声が電話で説明した。私は何度も「帰るって言っていました」と答えた。まるで予定を伝えれば、事故のほうが間違いに気づくと思った。
その日から、廊下でエレベーターが止まるたび、私は鍵の音を待った。待つことだけは、誰にも取り上げられなかった。
一か月後、修理から戻った彼のスマートフォンを、私は寝室で開いた。ひび割れた画面の奥に、送られなかった下書きが残っていた。
〈異動は断った。君の仕事も、窓辺の鉢も、朝の寝癖も、全部ここにあるのに、僕だけ行くのは違うと思った。もう決めたっていうのは、残るって決めたという意味で〉
文章はそこで途切れていた。
続きに何を書くつもりだったのか、私は知っている気がしたし、知る資格がない気もした。
窓辺のローズマリーは冬を越し、新しい芽を出した。彼はよく水をやりすぎた。私はいつも文句を言いながら、受け皿にたまった水を捨てた。
引っ越しの日、空になった部屋で最後に彼との画面を開く。
〈おかえり〉
そう打つ。送れば、宛先不明になるのだろう。消せば、あの夜と同じになる。
結局、どちらもできなかった。
画面には今も、誰にも届かない「おかえり」が入力中のまま、春だけが先に来ている。