八割の送信
榎戸澄香は、取引先へのメールを十七回読み返していた。
件名、宛名、添付ファイル。数字は元資料と照合し、敬語は検索し、最後の「何卒よろしくお願いいたします」が重くないかまで調べた。送信予定は午前十時だった。画面右下は十時四十八分を示している。
本文の三行目にある「現時点では」という言葉が気になった。逃げているようにも、慎重なようにも読める。消しては戻し、戻しては別の表現に替えた。カーソルの点滅が、自分だけを急かしている気がした。
澄香はいつも、間違いのないメールを送りたかった。正確には、間違えた人だと思われないメールを送りたかった。入社二年目の春、一桁違う見積額を送ったことがある。すぐ訂正し、実害もなかったのに、それ以来、送信ボタンの前で時間が薄く削れていった。
チャットには同僚から「先方、返事待ってるみたい」と届いた。胸が縮む。澄香は反射的に、もう一度添付を開こうとした。
その指を、マウスの上で止めた。
金額は確認した。日付も見た。宛先も合っている。それでも不安は残っている。不安がなくなるまで待つなら、たぶん昼になっても送れない。
澄香は画面の端に貼ってあった付箋を見た。以前、自分で書いたものだ。「完璧にしてから」。いつの間にか命令のようになっていた。
付箋を剥がし、裏返した。白い面にボールペンで「二回見たら送る」と書く。今日はもう十七回見ている。規則違反どころか、大幅な超過だった。
メールの末尾には、少し迷いの残る「現時点では」がそのままある。澄香は息を吐き、送信を押した。
送信済みフォルダに件名が移った。派手な達成感はなかった。手のひらにはまだ汗があり、誤字を思い出しそうになるたび、胃のあたりがざわついた。
それでも澄香は送信済みメールを開かなかった。
代わりに冷めた麦茶を一口飲み、次の仕事のファイルを一つだけ開いた。画面の横で、裏返した付箋の白さが、小さな余白のように残っていた。
麦茶の底で、氷が一度だけ鳴った。