八十年先の住所
時間移民局の窓口で、藤代玻南は新住所を書いた。
〈西暦二一一〇年・北海再生区四番街〉
海底種子の研究者として、八十年後の地球へ移住する。時間門は未来へしか開かず、玻南にとっては一歩でも、菱木諒成にとっては一生より長い距離だった。
「緊急連絡先が空欄です」
職員が言った。
玻南は隣の諒成を見た。
「西暦二〇三〇年の人は書けませんか」
「到着時に生存している可能性のある方のみです」
諒成は笑った。
「八十年くらい頑張るけど」
「百十歳だよ」
「健康診断、今日から本気出す」
二人は七年暮らした。冷蔵庫には味噌を切らすなという貼り紙があり、寝室の壁には行きたい町の写真が並んでいた。そのどれにも、八十年後の住所はなかった。
玻南は移住を断ろうとした。
すると諒成は、彼女の研究ノートを食卓へ積んだ。
「海が戻ったあとの種を、誰が選ぶの」
「私じゃなくても」
「それを言う人を好きになった覚えはない」
門が開く前夜、二人は同居解消届へ署名した。
移民者は現代の財産と契約を清算しなければならない。恋人関係まで届け出る必要はなかったが、諒成が用紙を作った。
〈解消理由――時間差〉
「馬鹿みたい」
玻南は泣きながら言った。
「八十年後も残る正式書類にしたかった」
「残らないよ、こんなの」
「じゃあ、なおさら書く」
出発の日、玻南は指輪も写真も持たなかった。未来で帰る場所にしてしまえば、どの景色も現在の代用品になると思ったからだ。
門の手前で、諒成が小さな鍵を渡した。
二人の部屋の合鍵だった。
「契約は解消したでしょう」
「八十年後、捨てて」
「今捨てればいい」
「それは俺にはできない」
玻南は鍵を握った。
門の向こうには、まだ建っていない街の朝が見えた。
「諒成。さようなら」
「行ってらっしゃい」
別れの言葉が違う、と言おうとした瞬間、門が閉じた。
二一一〇年の空は、玻南が想像したより青かった。
移民局の係員が新居の鍵を渡す。
彼女の掌には、開く扉を失った古い鍵と、これからの扉を開く新しい鍵が並んだ。
八十年先まで運べたのは金属だけだった。
それでも玻南は古い鍵を捨てず、新しい住所の最初の引き出しへしまった。
帰れない家が、確かにあったことだけは、未来にも置いておきたかった。