八年遅れの返却日
引っ越し用の箱から、紺色の文庫本が滑り落ちた。『海を渡る鳥の地図』。角は丸くなり、裏表紙には高校の図書室で貼られた透明テープが残っている。ただし、これは図書室の本ではない。祥乃が澄花から借りたまま、八年返せずにいた本だった。箱の底で見つけるたび、祥乃はまだ決めていないと言って、また蓋を閉じてきた。頁の下には鳥の飛んだ距離を示す小さな地図があり、昔の祥乃はそこへ自分の行けない町ばかり丸で囲んでいた。
三年生の冬、進路希望調査を白紙で出した祥乃に、澄花は窓際の席でその本を押しつけた。
「主人公、最後まで行き先を決めないんだよ」
「それ、面白いの?」
「決めないまま飛ぶのも、飛び方の一つだって分かる」
澄花は卒業後、母親の再婚で北海道へ移ることになっていた。祥乃は地元の短大へ進むつもりだったが、本当は東京で舞台照明を学びたかった。澄花だけが、それを知っていた。
卒業式の翌朝、二人は無人駅のホームに立った。澄花の列車が来るまで七分。祥乃は本を返そうと鞄から出したが、澄花は受け取らなかった。
「読み終わった?」
「まだ」
「じゃあ持ってて。自分の行き先を決めるまで」
列車の扉が閉まる直前、澄花は何か叫んだ。祥乃には聞こえなかった。聞き返す代わりに笑って手を振った。置いていかれたと思いたくなくて、その夜届いた着信にも出なかった。翌月には番号が変わり、本は返す理由より、連絡できない言い訳になった。
二十六歳の祥乃は、ようやく最終頁を開いた。余白に澄花の字があった。
〈決めたら教えて。どこでも見に行く〉
検索すると、澄花は札幌で小さな移動書店を始めていた。紹介写真の横には、昔と同じ少し傾いた笑顔がある。
祥乃は本を封筒に入れた。長い謝罪文は書かなかった。
〈舞台照明の会社へ転職します。八年かかった。次は私が見に行く〉
翌朝、封筒を投函してから、新しい職場へ向かう列車に乗った。窓の外で鳥の群れが進路を変えた。祥乃はもう、それを置いていかれる形だとは思わなかった。