八時十三分の退職届
転職初日の前夜、宮下紬は商店街の裏にある「九重時計店」を訪ねた。
直してほしいのは、止まった目覚まし時計ではない。前の会社を辞めた理由を、どうしても思い出せなくなったのだ。
「自分で決めたはずなのに、逃げただけだった気がして」
銀縁のルーペを片目にはめた九重透子は、紬の言葉より先に時計の裏蓋を見た。灰色の作業着、結い上げた髪、親指には銀の指ぬき。愛想は、棚の壊れた鳩時計より少なかった。
壁には、針の止まった時計が十二個並んでいた。時刻はすべて違う。紬が見回すと、透子は「客が帰るまで動かさない」とだけ言った。直せないのではなく、持ち主が何を思い出すか決める前に、勝手に先へ進めないのだという。
「時間は証人です」
それが透子の口癖らしい。
目覚まし時計は、退職を決めた朝の八時十三分で止まっていた。透子が竜頭を回すたび、紬の内側で音が戻る。会議室。上司の声。自分の企画を横取りされたことより、後輩が同じ目に遭い、紬が黙っていたこと。
「もう少し頑張れたんじゃなくて、もう十分だったんです」
思い出した途端、胸が痛んだ。逃げたのではない。後輩の記録を人事に渡し、退職届を出した。結果までは知らない。知る勇気がなかった。
記憶が戻ったのに、紬の手は冷えたままだった。正しいことをしたなら、もっと誇らしい気持ちになるはずだと思っていた。透子はそんな期待を切るように、銀の指ぬきで机を一度鳴らした。
「正しさと、怖くないことは別です」
透子は時計を閉じ、銀の指ぬきで裏蓋を三度叩いた。
「修理完了。明日の八時十三分に鳴ります」
「こんな時間、家を出るには遅いです」
「出勤のためではありません。前の職場へ電話するためです」
透子は引き出しから一枚の名刺を出した。そこには紬が守ろうとした後輩の名前と、新しい勤務先が書かれていた。数日前、この店に時計を持ち込んだのだという。
「会いたがっていました」
「どうして、そこまで」
「時間は証人です」
同じ言葉なのに、今度は冷たく聞こえなかった。
店を出ると、紬の鞄の中で目覚まし時計が小さく震えた。まだ八時十三分ではない。振り返ると、透子は銀の指ぬきを外し、窓越しにこちらを指していた。
証言する番は、時計ではなく紬なのだ。