八時十二分の改札

久瀬原美冬が八時十二分の改札を抜けると、七分後に男がホームから落ちた。

その朝から導入された事故予防AIは、重大事故を検知すると関係者の神経記録を七分だけ巻き戻すはずだった。なぜか美冬だけが、前の七分を覚えていた。

非常停止ボタンへ駆け、腕をつかみ、駅員に叫ぶ。救急隊のサイレンが近づいた瞬間、景色が裏返り、美冬はまた八時十二分の改札前に立っていた。

二度目は落ちる前に男を止めた。三度目はホームへ入れなかった。四度目は警察へ引き渡した。それでも八時十九分になると、時計の針が七分戻った。

百回を越すころには、男がコーヒーを左手に持ち、靴ひもを気にして二度足を止め、妻からの着信を無視することまで覚えていた。美冬は彼を救うことに夢中になった。救えなかった夫の事故を、今度こそ上書きできる気がした。

だが、改札を通るたび、携帯には同じ未読通知があった。

〈今日、朝ごはんだけでも一緒に食べない? 九時まで待つね〉

三年前から口を利いていない娘、花音からだった。夫の死後、美冬は「あの日、私がもっと早く電話していれば」と娘を責めた。娘もまた、母を避けた。

二百三十七回目、美冬は男の襟をつかんで怒鳴った。

「どうして落ちるの。私が何度助けても!」

男は怯えながら言った。

「助けてなんて頼んでません。僕、ただ眩暈がするだけで」

その言葉で、美冬は初めて自分が誰を助けようとしていたのか分からなくなった。

次の八時十二分、彼女は駅員に男の特徴と行動を告げ、非常停止ボタンの前に立つよう頼んだ。訝しむ駅員へ頭を下げ、改札を逆に抜けた。

ホームで悲鳴が上がった。足が止まりかけたが、すぐに非常ベルが鳴った。誰かの手でも、人は救える。

美冬は走った。喫茶店では、娘が冷めたトーストを見つめていた。

「遅い」

「七分だけ」

美冬は向かいに座り、夫の事故以来初めて、娘へ謝った。

壁の時計が八時十九分を越えた。秒針は戻らなかった。

その後、美冬は駅の危機管理室を辞めた。救うことを諦めたのではない。一人で救えると思い上がるのをやめたのだ。毎週水曜の朝、娘と同じトーストを分ける。その七分は、どんな永遠より長かった。