八月の三十九番

夏休みの当番で校舎に入ると、廊下は知らない建物みたいに長かった。ワックスの匂いと、窓の外で鳴き続ける蝉。職員室で鍵を借り、三年二組の戸を開ける。誰もいない教室では、机も椅子も正しく黙っていた。

僕の目的は、終業式の日に置き忘れた筆箱だった。けれど自分の席へ向かう途中、窓際のいちばん後ろで足が止まった。

三十九番。野路原慧の机だ。

天板には、コンパスで彫った小さな星と、僕が授業中につけたボールペンの跡が残っている。席替えのたびに持ち主が変わったのに、最後の二か月だけは、そこが野路原の場所だった。

父親の転勤が決まって、野路原は終業式の三日前に引っ越した。最後の日、教室中が寄せ書きや写真で騒ぐなか、僕だけはいつもの調子で言った。

「じゃ、また九月」

野路原は一度だけ変な顔をして、それから笑った。

「おう。また九月」

本当は、住所を聞くつもりだった。連絡先はクラスのグループにあるから平気だと思った。なのに、彼の名前だけが退出済みになった画面を見てから、何も送れなくなった。

机の中には、丸めたプリントが一枚残っていた。夏休みの予定表。海、花火、部活、宿題。先生が例として黒板に書いた言葉を、野路原は全部そのまま写している。余白に、小さく落書きがあった。

『三十九番、欠番にするな』

僕は笑った。あいつの字だった。誰に向けたのか分からない。たぶん自分に、あるいは教室に。

筆箱から青いペンを出し、その下へ書いた。

『九月にいなくても、三十九番は三十九番』

写真を撮り、以前一度だけ個別に送ったゲームの招待履歴を掘り出す。そこにはまだ、野路原のアカウントが残っていた。添付して、「また九月って言ったから、九月に返事しろ」と打つ。

送信ボタンの上で、指が汗ばんだ。

押した瞬間、窓から風が入った。カーテンがふくらみ、三十九番の予定表が机の上で鳴った。

返事はすぐには来なかった。それでも、誰もいない教室で初めて、あの日の別れが途中ではなくなった気がした。