六分後の買収額

婚約披露の夕食会で、十文字原依都花は指輪を外し、霧舟廉士の前へ滑らせた。

「ごめんなさい。将来を考えたら、景瑛さんのほうが安心なの」

隣に座る綾小路森景瑛は、投資ファンドの名刺を見せた。

「廉士君は小さな会社の技術者だろ。夢は立派でも、家庭は数字で支えるものだよ」

依都花の両親まで、条件の良い相手を選ぶのは当然だとうなずいた。廉士は一年前から、給料の大半を研究設備へ戻し、電車で通勤していた。それを依都花は、貯金もできない男だと決めつけていた。

「分かった。指輪は預かるよ」

廉士が立ち上がると、景瑛は腕時計を見た。

「逃げるのか?」

「六分後に仕事がある」

同じホテルの大宴会場で、医療AI企業の買収発表会が始まった。依都花たちは興味本位で後ろから覗いた。

壇上へ呼ばれたのは廉士だった。

彼は会社員ではなく、難病診断システムを開発した企業の創業者兼筆頭株主だった。目立つ肩書を避け、製品の精度を上げるため開発室に残っていただけだ。海外企業による買収額は四千八百億円。廉士は株式売却後も代表を続け、手元に残る対価だけで数百億円になると発表された。

依都花の父が椅子から腰を浮かせる。

景瑛は笑顔を作った。

「実は僕も、この案件を担当していてね」

投資ファンドの役員が壇上から彼を見つけた。

「綾小路森君。まだ公表前の買収情報を私的に利用したと、自分で認めたのか?」

景瑛は試用期間中の調査補助にすぎず、創業家とも無関係だった。依都花へ見せた高級車も会社の送迎車。婚約を奪うため、機密情報を自分の実績のように語っていた。

役員はその場で社員証の返却と自宅待機を命じた。

依都花が廉士へ駆け寄る。

「私、あなたのお金で選んだわけじゃない。知らなかっただけで――」

廉士は指輪をケースへ戻した。

「知らなかったのは資産じゃない。僕が何を作っていたかだよ」

大型画面に〈買収契約成立〉と四千八百億円の数字が表示され、景瑛の社員証が無効になった。

六分前に“条件の悪い男”へ返された指輪が閉じた瞬間、依都花が乗り換えた先には、肩書も仕事も残っていなかった。