六時のパンの匂い
六時のパンの匂いは、盗まれた宝石より先に店へ入っていた。
宝飾店の店主は、陳列台の裏で手首を縛られていた。金庫から消えたのは、青い石の指輪が一つだけ。警報は切られ、裏口にこじ開けた跡はない。陳列台には赤い帯で留めたパン袋があり、店員の鞄からは温かな煮物の匂いがした。
店員は、六時を少し回ったころ店に着いたという。通りはまだ薄暗く、向かいのパン屋から焼きたての匂いが流れていた。寺の鐘が六つ鳴り、その直後、店内で何かが倒れる音を聞いた。シャッターの隙間から、灰色の上着の男が出てくるのも見た。
刑事は経理担当を疑った。金庫の番号を知り、灰色の上着も持っている。しかし経理担当は、毎朝六時には河川敷の走行会に参加していた。仲間五人が写真まで示した。撮影時刻は六時二分。顔もはっきり写っている。
代わりに浮かんだのは、向かいのパン屋の配達員だった。灰色の制服で、裏口の合鍵を預かったこともある。配達員は、店主に頼まれたパンを届けただけだと繰り返した。
店主は犯人の顔を見ていない。ただ、鐘が鳴る前に「今日の数字を確認させてください」と声を掛けられたという。経理担当なら不自然ではない言葉だったが、刑事は走行会の写真に引きずられ、その証言を重く扱わなかった。配達員の指紋は紙袋にしかなく、金庫にも縄にも残っていなかった。
陳列台には紙袋が残っていた。袋の口を留める帯は赤かった。刑事が尋ねると、配達員は「朝の食パンは白い帯です」と答えた。赤は二度目の窯で焼く、小さな菓子パンの印だという。
もう一つ、店員の鞄には、まだ温かい総菜が入っていた。彼女は尋問が長引くうちに「家族の夕食が冷める」とこぼした。刑事はそこで、誰も口にしていない一語を思い返した。朝、とは誰も言っていなかった。
店の時計は十二時間表示だった。寺の六つ鐘は閉門の鐘、赤い帯のパンは午後の二便目。店員が来たのは、冬の午後六時、閉店作業のためだった。
刑事は河川敷の写真を机へ戻し、経理担当に尋ねた。
「では、今朝ではなく――昨夜の六時二分、どこにいましたか」
六時のパンの匂いは、店が開く前ではなく、店が閉じたあとに入っていた。