共同鍵は返却済み

乙部茅乃と帆刈惇平は、敵対する二つの情報警備会社で働いていた。

茅乃は〈アルゴ・セーフ〉の暗号設計者。惇平は〈ネスト・コード〉の侵入調査員。

両社は五年間、基幹技術の盗用をめぐって訴訟を続け、社員同士の私的接触まで就業規則で禁じていた。

二人が出会ったのは、匿名参加の技術競技会だった。

顔も会社も知らないまま、同じ脆弱性を見つけた。

正体を知ったあとも別れられず、共有端末の暗号領域を「共同冷蔵庫」と呼び、そこへ待ち合わせや夕食の相談を残した。

ある夜、惇平は自社の保管庫で、盗用を証明する設計記録を発見した。

彼は匿名で茅乃へ送った。

その資料によって裁判は動き、社内調査が始まった。

送信者が惇平だと判明するのは時間の問題だった。

二人は始発前のファミリーレストランで向かい合った。

「私が証言すれば、あなたは解雇される」

「証言しなくても、記録は残る」

「一緒にいることが知られたら、会社は資料を恋人同士の捏造だと言う」

「俺の会社は、君にそそのかされたことにするだろうな」

茅乃は砂糖の袋を一つずつ並べた。

いつもなら惇平が崩して遊ぶのに、今日は触れなかった。

「別れたら、真実になるのかな」

「ならない。でも、真実を恋愛の付属品にされにくくなる」

惇平は盗用を告発したかった。

茅乃を勝たせたいからではなく、自分が守るはずだった技術者たちを裏切りたくなかったからだ。

茅乃も彼をかばいたかった。

けれど証言を曲げれば、彼が会社を敵に回してまで渡した記録を、自分の手で無価値にしてしまう。

二人は端末を開き、「共同冷蔵庫」を削除した。

旅行の写真、喧嘩の記録、惇平が一度だけ書いた〈いつか同じ会社名の名刺を持ちたい〉という文も消えた。

最後に共同鍵の失効確認が表示された。

〈この鍵では、今後いかなる情報も復号できません〉

「正確だね」

茅乃が言った。

「嫌になるくらい」

店を出ると、二人は反対方向の駅へ歩いた。

惇平は会社を去り、茅乃は法廷で資料の真正性を証言した。

恋の記録は消した。

それでも盗用記録の検証値だけは、両社のサーバに同じ数字で残った。

二人が愛し合っていたことよりも先に、二人が別れてまで守った事実が、誰にも書き換えられずに残った。