再生ボタンの向こう側

白洲依都が食卓に着くことを、義母の操は「家族会議への出席」と呼んだ。

四年間、依都の朝は五時に始まった。憲造の弁当、操の通院送迎、夫・駿平のワイシャツ。仕事を続けたいと言えば、駿平は決まって「母さんを悲しませるな」と笑った。今夜も三人の前には、依都だけが守る《家族の心得》が置かれていた。

「反省したなら署名して」

操が万年筆を押しつける。

「妻は夫の両親を最優先する。外で働くときは許可を得る。口答えはしない」

憲造が読み上げ、駿平がうなずいた。

「これで丸く収まるよ。母さんも許してくれるって」

依都は署名せず、卓上に小さな再生機を置いた。

『泣いても部屋から出すな。明日の朝までに謝らせろ』

流れたのは駿平の声だった。

操が立ち上がる。

「録音なんて卑怯よ!」

玄関のチャイムが鳴り、依都の代理人である女性弁護士が入ってきた。鞄から厚い索引を取り出す。録音六百十二件、家族用チャットの書き出し、診断書、退職を迫ったメール、依都名義の預金から三人の口座へ移された送金記録。日付順に番号が振られていた。

「白洲依都さんは離婚を請求します。夫および義父母による共同不法行為として、慰謝料千二百万円、休業損害八百三十万円、不当利得返還三百四十万円。合計二千三百七十万円です」

駿平は青ざめて母を見た。

「僕は母さんに頼まれただけだ」

弁護士は次の音声を再生した。

『父さん、母さん。依都を辞めさせれば給料も退職金も家に入る。三人で押し切ろう』

今度は誰も声を出せなかった。

憲造が強がって鼻を鳴らす。

「裁判で勝ってから言え。うちには払う金などない」

弁護士は窓の外を示した。門前に執行官と銀行員が立ち、封筒を持っている。

「ですから、先にご自宅と駿平さんの証券口座へ仮差押えを申し立てました」

憲造の携帯が鳴った。取引銀行の支店長だった。

『白洲様、ただいま裁判所の命令に基づき、口座と担保不動産の処分を停止しました』

依都は《家族の心得》を裏返し、離婚訴状を三人の前へ滑らせた。