冷蔵庫が眠る四十秒

 冷蔵庫のモーターが止まると、部屋は四十秒だけ広くなった。

 小暮は枕へ頬をつけたまま、暗い天井を見ていた。枕元の充電器は緑に光り、カーテンの隙間から向かいのマンションの非常灯が細く差している。ぶうん、と冷蔵庫が回っているあいだは、ワンルームの壁が近い。音が途切れると、流し台も玄関も、急に遠くへ下がるようだった。

 四十秒。

 その間に眠ろうとすると、かえって目が冴えた。

 夕方、会社の緊急連絡先から、三年前に別れた人の名前を消した。変更画面を開くまで、その欄が残っていることさえ忘れていた。削除を押したあと、代わりに登録する相手が思いつかず、空欄のまま保存した。

 冷蔵庫がまた回る。低い振動が床を伝い、棚の上の空き瓶をかすかに鳴らした。ぶうん。ぶうん。小暮は数を数えずに音を聞いた。

 モーターが止まった。

 今度の静けさの向こうで、上の階から椅子を引く音がした。短く、ぎ、と鳴り、それから水道が流れた。誰かがまだ起きていて、コップを洗ったのか、歯を磨いたのかもしれない。足音は二歩だけ続き、やがて消えた。

 顔も名前も知らない。朝に会っても分からないだろう。それでも、四十秒の空白には小暮の呼吸以外の音が一度だけ通った。

 水道が止まったあと、上の階にもまた静けさが戻った。同じ四十秒かどうかは分からない。けれど無音に見える建物の中で、誰かの夜も短く動き、また休んだ。その事実は励ましではなく、部屋の壁を本来の距離へ戻す程度のものだった。

 冷蔵庫が再び動き出す前に、小暮は枕を裏返した。冷たい面が頬へ当たる。スマートフォンを開けば、連絡先の空欄を埋める候補くらい探せた。けれど今夜はしなかった。

 ぶうん、といつもの回転が戻る。部屋はまた狭くなり、充電器の緑が壁へ小さな影を作った。

 空欄は、助けを求める相手が一人もいないという宣告ではない。ただ今すぐ決めなくていい欄だと思えばよかった。

 小暮は昼間の変更画面を思い出した。空欄の横には赤い警告もなく、保存は普通に完了した。機械にとっては不足ではないらしい。冷蔵庫の中にも、卵が二つと炭酸水しかない。それでも朝食を作れないわけではない。足りないものと、今夜なくても困らないものを、同じに数えなくてよかった。

 次に冷蔵庫が眠るまで、小暮は目を閉じていた。四十秒の静けさを全部埋めなくても、今夜の部屋には一人で横になっていられそうだった。