冷蔵庫の右半分

 久留米川朝葉が一人暮らしを始めて三日目、冷蔵庫に知らない牛乳が入っていた。

 紙パックには付箋が貼られていた。

〈右半分を使います。卵は共用で〉

 前の入居者の忘れ物だと思い、牛乳も付箋も捨てた。

 翌朝、同じ銘柄の牛乳が戻っていた。冷蔵庫の棚には、見えない境界線でもあるように、朝葉の食品がすべて左側へ寄せられている。

 その日から、同居生活の痕跡が増えた。

 帰宅すると浴室の床が濡れ、洗面台には二本目の歯ブラシが立っている。夜中にはベッドの右側が沈み、すぐ隣から寝返りの気配がした。

 玄関の鍵を替えても変わらなかった。

〈お風呂は一時以降にしてください〉

〈目覚ましがうるさいです〉

〈友人を呼ぶときは、先に相談を〉

 朝葉は付箋の裏に書いた。

〈誰ですか。出ていってください〉

 返事は、いつもより丁寧な字だった。

〈そちらこそ、いつまでいるつもりですか〉

 管理会社に訴えると、担当者は困った顔で図面を見せた。

 二十一平方メートルのワンルーム。けれど朝葉が測ると、壁から壁までは十五平方メートルしかなかった。

 翌週には十二平方メートルになった。

 冷蔵庫は半分しか開かず、クローゼットの右側には手が入らない。見えない家具に押されるように、ベッドも机も左へずれていった。

 ある晩、新しい付箋があった。

〈今夜、友人が泊まります。姿を見ても声をかけないでください〉

 午前二時、鍵もチェーンも動かないまま、台所で二人分の笑い声がした。

「ねえ、あそこに女の人がいる」

 知らない声が震えた。

「見ないで。前からいるだけだから」

 もう一人が答えた。

 朝葉は電気をつけた。

 誰もいない。ただ、食卓には湯気の立つカップが二つあり、片方の椅子が彼女を避けるように引かれた。

 翌朝、付箋には謝罪が書かれていた。

〈友人を怖がらせたので、今月中に退去してください〉

 朝葉は壁紙を剥がした。

 その下には、何十枚もの付箋が重なっていた。

〈ここは私の部屋です〉

〈あなたの姿が見えます〉

〈左半分だけでいいから返してください〉

 筆跡はどれも違った。

 一番下の古い紙だけ、朝葉自身の字だった。

〈次の人へ。冷蔵庫の右半分を空けてはいけない〉

 背後で冷蔵庫が開いた。

 見えない手が、朝葉の食品をすべて床へ落とした。

 新しい付箋が、扉の中央に貼られていた。

〈明日から、全部使います〉