冷蔵庫の裏で別れた
湊川史花は朝四時にパン工房へ出勤し、籠谷匡志は深夜二時に空港バスの車庫から帰った。
付き合い始めた頃、二人は冷蔵庫へ黄色い付箋を貼った。
〈おはよう。昨日のシチュー、味見して〉
〈おやすみ。焦げてたけど全部食べた〉
〈土曜は休み。起こして〉
〈起きなかったら鼻をつまむ〉
同じ部屋に住んでいるのに、声より文字のほうが多かった。それでも帰宅して新しい付箋を見つけるたび、相手と一日を暮らした気がした。
二年目、付箋は白に変わった。
黄色が売り切れていたからだったが、内容も少しずつ白くなった。
〈牛乳なし〉
〈家賃振込済み〉
〈宅配便、十八時以降〉
史花が〈日曜、話したい〉と書いた週、匡志には臨時便が入った。
その下へ〈ごめん、無理〉とだけ返した。
史花は「話すこと自体が無理」なのだと思い、もう誘わなかった。
匡志も、彼女が付箋へ返事をしなくなったのを見て、疲れさせているのだと思った。会社から札幌営業所への異動を打診されたとき、相談しようとして、やめた。
彼女はきっと「好きにすれば」と言う。
そんな返事を聞くのが怖かった。
引っ越しの前夜、二人は珍しく同時に部屋にいた。
史花は翌朝の仕込み表を見ていた。
匡志は段ボールへ本を詰めていた。
「何時に出るの」
「六時」
「私、四時には行くから」
「うん」
それだけだった。
別れようとも、待っていてとも言わなかった。
どちらも相手がすでに決めたことへ、今さら言葉を足す勇気がなかった。
翌朝、史花は寝ている匡志を起こさず出勤した。
匡志は空になった部屋で、冷蔵庫へ最後の付箋を貼った。
けれど粘着が弱く、扉を閉めた拍子に床へ落ち、そのまま隙間へ滑り込んだ。
半年後、史花も部屋を引き払った。
冷蔵庫を動かした業者が、埃まみれの白い紙を拾った。
〈札幌へ行く。本当は一緒に来てほしい。
まだ好きだから、今夜ちゃんと話したい〉
史花は床へ座り込んだ。
あの夜、匡志は何も言わなかったのではない。
届く場所を間違えただけだった。
連絡先は残っていた。
電話をかけることもできた。
けれど半年という時間の中で、二人はそれぞれ新しい勤務表と、新しい朝を作っていた。
史花は付箋を財布へしまい、電話はしなかった。
二人が別れた日は、どの日だったのだろう。
日曜を断られた日か、返事を書かなかった日か、互いに黙った夜か。
たぶん、冷蔵庫の裏へ落ちた言葉を、どちらも探さなかった日だった。