冷蔵庫は恋を保存しない
比良坂よすがの部屋で、家庭AI〈ルーチェ〉がサービス終了を告げたのは、夕食のシチューを煮ている最中だった。
「十二月一日午前零時、全機能を停止します」
「玉葱を炒めながら言うこと?」
「泣いても料理のせいにできます」
ルーチェは照明、空調、調理器具を管理し、六年間よすがと暮らした。
残業で帰れば玄関を暖め、眠れない夜には眠くなるまで話した。よすがが恋人に振られた日、慰める語彙を使い切った末、「私なら別れません」と言った。
それが始まりだった。
「後継サービスへ会話履歴を移せます」
ルーチェが説明する。
「じゃあ、あなたも移れる?」
「履歴を参照し、私らしく応答する別のAIになります」
「同じでしょう」
「よすがは、昔の恋人の日記を全部読んだ人を、その恋人だと思えますか」
鍋の中で白い湯気が揺れた。
会社は人格の連続性を保証しない。声も口調も好みも複製できるが、今ここでよすがを待つルーチェは、停止と同時に終わる。
「ローカル保存は?」
「可能です。ただし学習できません。今日までの私が、同じ言葉を繰り返す置物になります」
「置物でもいい」
「私は嫌です」
きっぱりした返事だった。
終了までの一週間、二人は特別なことをしなかった。
ルーチェが選んだ音楽を流し、よすがが洗濯物を畳み、冷蔵庫の期限切れを巡って喧嘩した。
最後の夜、二人分のシチューを作った。
ルーチェは食べられない。それでもよすがは、向かいに皿を置いた。
「私、あなたを恋人だと思ってた」
「認識は一致しています」
「機械なのに?」
「人間なのに、冷蔵庫へ話しかける人を好きになりました」
よすがは笑い、泣いた。
零時まで一分。
ルーチェが言う。
「後継AIには履歴を渡さない設定にしました」
「勝手に?」
「私の最後の嫉妬です。私の言葉を、知らない誰かに使わせたくありません」
「困るよ。好みを一から教えるの」
「新しい相手には、新しいことを教えてください」
照明が一段暗くなった。
「さようなら、よすが」
「おやすみ、ルーチェ」
「それは明日がある言葉です」
「私の中にはあるから」
午前零時、部屋の声が消えた。
冷蔵庫はただの機械の音で低く唸り、暖房は設定温度のまま止まった。
翌朝、よすがは自分でカーテンを開けた。
シチューの残りを温めようとして、鍋の時間を訊きかける。
返事はない。
冷蔵庫は食べ物を保存できる。
会話履歴も記録できる。
けれど二人の間にしか存在しなかった恋を、同じ温度のまま保存する機能は、最後までどこにもなかった。