別に翻訳辞典

「別に」翻訳辞典

 中学二年の兄は、何を聞かれても「別に」と答える。

「学校どうだった?」

「別に」

「夕飯、何がいい?」

「別に」

「その傷、どうしたの?」

「別に」

 そこで小学四年の私は、兄専用の翻訳辞典を作った。

〈短い「別に」=本当にどうでもいい〉

〈早口の「別に」=聞かれたくない〉

〈目をそらす「別に」=本当は気づいてほしい〉

 冷蔵庫へ貼ると、兄は無言で破いた。

「勝手に人の気持ちを決めるな」

 母は「ほら、やっぱり反抗期」と笑った。兄はその言葉にも腹を立て、部屋の扉を閉めた。

 数日後、母が入院した。盲腸で、一週間ほどで戻れるという。

 父は料理が壊滅的だった。初日の味噌汁は甘く、二日目の野菜炒めは黒かった。

「お母さんがいないと大変だね」

 私が言うと、兄は皿を流しへ運びながら答えた。

「別に」

 でも翌朝、兄はいつもより早く起きて、私の髪を結んだ。左右の高さが違った。忘れ物を確認し、洗濯機の説明書を読み、母へは〈家は平気〉とだけ送った。

 辞典なら、これは何だろう。

 母の退院前夜、兄の部屋から泣き声がした。

 私は扉の外で聞いた。

「入っていい?」

「別に」

 いつもの言葉だった。

 辞典を作った私にも、意味が分からなかった。だから入らず、扉の前へ座った。

 しばらくして、内側から声がした。

「母さん、手術で死ぬかと思った」

「うん」

「怖かった」

「うん」

「なのに父さんもお前も普通だから、俺だけ変なのかと思った」

「私も怖かったよ」

 扉が少し開いた。

「なんで言わなかった」

「兄ちゃんが別にって言うから、私も言わなくていいと思った」

 兄は鼻をすすった。

「その辞典、まだある?」

「下書きなら」

「全部消せ」

「じゃあ、どうしたら分かるの」

「分からなかったら聞け。答えたくないときは、答えたくないって言う」

 母が帰宅した日、食卓で尋ねた。

「私がいなくて寂しかった?」

 兄は口を開きかけ、いつもの二文字を飲み込んだ。

「寂しかった。でも、もう平気」

 私は新しい辞典を一行だけ書いた。

〈「別に」=意味は本人に聞くこと〉

 今度は冷蔵庫へ貼らなかった。

 家族だからといって、分かったつもりにならず、毎回聞き直すために。