別れた日だけ、覚えていない
加賀谷尚孝が失ったのは、直近十一か月の記憶だった。
病室で目を覚ました彼は、野々宮絹乃を見るなり右手を差し出した。
「指輪、どうしたの」
絹乃の薬指には、薄い跡だけが残っていた。
二人は八か月前に別れていた。
六年間付き合い、結婚式場まで見に行った。それでも尚孝は子どものいる家庭を望み、絹乃は望まなかった。説得も譲歩もせずに話し合おうと決めたはずが、最後には互いの未来を否定する言葉ばかり増えた。
尚孝は、その日々を一つも覚えていない。
「喧嘩したなら謝る」
「喧嘩じゃないの」
「じゃあ、やり直せるだろ」
「やり直した結果、別れたの」
彼は納得できない顔で、ベッド脇の引き出しから銀色の指輪を出した。事故のときも財布に入れていたという。
「僕はまだ、絹乃が好きだ」
「そうだと思う」
「君は?」
「好きだよ」
答えると、尚孝の顔が明るくなった。
絹乃はその光を消すように続けた。
「今も好き。でも、戻れない」
記憶を失った彼にとって、別れは他人から聞かされた出来事でしかない。だからこそ、絹乃がうなずけば、二人は簡単に恋人へ戻れる。
だがそれは、苦しんで別れを選んだ過去の二人を、いなかったことにするのと同じだった。
「記憶が消えても、尚孝が子どもを望むことは変わらない。私が望まないことも変わらない。愛しているからって、どちらかの人生を間違いにはできないよ」
尚孝は指輪を握ったまま、長く黙った。
「どうして見舞いに来たの」
「緊急連絡先を消してなかったから」
「それだけ?」
「別れたあとも、嫌いにはなれなかったから」
帰ろうとすると、彼が呼び止めた。
「別れた日の僕は、最後に何て言った?」
「幸せになって、って」
「本心だった?」
「たぶん、言った直後は後悔してた」
尚孝は少し笑い、病院の記録用ノートを開いた。
震える字で、一行ずつ書く。
〈絹乃と別れた。
嫌いになったからではない。
好きなまま、同じ未来を選べなかった。〉
「これなら、明日も覚えていられる」
「うん」
絹乃は指輪を受け取らず、病室を出た。
彼が忘れていた別れは、その日、初めて彼自身の記憶になった。
そして絹乃の告白は、二人を結び直すためではなく、好きだったことまで失わせないために残った。