助手席を降りる日
事故から十四か月、鬼束藍里は左手だけでショパンを弾けるようになった。
凍った坂道で自転車を避けた車は、ガードレールへ衝突した。運転していた金杉律に過失はないと警察は言った。けれど助手席にいた藍里の右手には、戻らない麻痺が残った。
律は毎朝、靴ひもを結び、瓶の蓋を開け、通院へ車で送った。藍里が「自分でできる」と言えば手を離したが、その目はいつも、次に彼女が落とす物を待っていた。
復帰演奏会の日、藍里は左手のために書かれた曲を弾いた。
客席の最後列に律がいた。最初の和音で彼は俯き、終演を待たずに席を立った。
帰りの車で、藍里は言った。
「別れよう」
律はハンドルを握ったまま動かなかった。
「演奏、聴けなくてごめん」
「そこじゃない」
「次は最後までいる」
「次も、私の音じゃなくて事故を聴くでしょう」
赤信号が二人の顔を染めた。
藍里が音を外すと、律は痛そうに瞬きをした。うまく弾けると、許されたように息を吐いた。彼の中で演奏は音楽ではなく、あの日の判決になっていた。
「俺が一緒にいたいんだ」
「私も一緒にいたかった」
「なら」
「でも、あなたの罪悪感を愛情の証拠にして暮らしたくない」
律は初めて声を荒らげた。
「勝手に罪悪感だけだと決めるな」
「決めてない。愛してくれてるのも知ってる。だから、混ざったままでは受け取れないの」
信号が青になった。後ろの車が短く鳴らしたが、律は発進しなかった。
「事故の前へ戻れたら」
「戻らないよ。右手も、私たちも」
藍里は婚約指輪を外し、カップホルダーへ置いた。
それから自分でドアを開けた。
「送る」
「今日は歩く」
「雨だぞ」
「傘も、自分で持てるようになったから」
右手では柄を握れない。藍里は左手で傘を開き、駅へ向かった。背後で車はしばらく止まったままだった。
半年後、律のもとへ演奏会の案内が届いた。
差出人欄に言葉はない。
彼は客席の中央で、今度は最後まで聴いた。
藍里の左手が最後の音を離したとき、事故ではなく、一つの曲が終わったことだけが分かった。
拍手をしながら泣いた。
別れたからようやく、彼女の音楽を彼女へ返せた。