北を捨てた羅針盤
王都の外れで古道具店〈針鼠堂〉を開いて七日、店主ヨルガが売った品はまだ一つもなかった。
棚には欠けた杯、片方だけの拍車、針のない羅針盤。通りの商人は「壊れ物の墓場だ」と笑い、向かいの雑貨屋は七日で潰れる方へ銅貨を賭けた。翌朝には最初の家賃の支払日も来る。それでも異世界から転移したヨルガには、品物の本当の用途が文字になって見えていた。見た目だけで捨てられた道具の価値を、彼だけは疑わなかった。前世で役に立たないと切り捨てられた自分と、棚の古物が重なって見えたからだ。最初の一品だけは、必要とする相手へ正しい値で渡すと決めていた。
夕暮れ、伝令騎士のオズリクが扉を蹴るように開けた。
「北を指さない羅針盤はあるか」
「普通は逆では?」
「普通の羅針盤が全部狂う霧の谷を越えたい。野戦病院へ解毒薬を届けなければ、夜明けまでに三十人死ぬ」
ヨルガは、針のない真鍮の羅針盤を差し出した。
「これは北ではなく、あなたの到着を待つ者を指します」
「針がないぞ」
「蓋を開けて、届ける相手を思い浮かべてください」
オズリクが半信半疑で蓋を開くと、内側の傷が一本だけ淡く光った。光は西の壁を示している。彼が野戦病院の医師を思い浮かべるたび、傷はぶれずに同じ方向へ伸びた。
「迷った者が帰還するための遺物です。ただし、待つ者がいなければ動きません」
騎士は一瞬だけ目を伏せたあと、羅針盤と解毒薬を抱えて走り去った。
翌朝、泥まみれのオズリクが戻ってきた。霧の中で道は三度消えたが、蓋の光だけは消えなかったという。薬は間に合い、全員が夜を越した。
彼は値札の五倍の金貨を置いた。
「安すぎる。これは三十人分の命の値だ」
「では、お釣りの代わりに一つだけ約束を。壊れた品を見つけたら、捨てずにここへ」
「承知した。王国中の倉庫番に伝える」
騎士が羅針盤を胸に収めて出ていく。ずっと空だった売上箱の底で、金貨が重く鳴った。
ヨルガが初めて店の看板を表へ向け直した、その直後。
ちりん、と二度目のドアベルが鳴った。