北稜二時十三分

 山小屋の非常無線が鳴ったのは、午前二時十三分だった。

「北稜救助本部。単独で下山した女性、応答してください」

 私は送信機を握った。吹雪の尾根に夫の暁臣を残してから六時間。救助要請は出したが、隊員が来るのは夜明け以降のはずだった。

「夫が滑落しました。ロープが切れて……」

「切れたのですか。切ったのではなく?」

 雑音に削られた男の声は、妙に落ち着いていた。

「事故です」

「切断面は刃物を入れたように平らでした」

「もう見つけたんですか」

「質問はこちらからします。夫のビーコンが止まった理由は?」

「故障だと思います」

「彼は出発前、新品の電池に替えています」

 私は右の親指を噛んだ。

「爪を噛むのは、嘘をつくときの癖ですね」

「なぜ、それを」

「ご主人の救助記録にありました」

 そんな記録に癖まで書くはずがない。そう思ったのに、声は間を与えなかった。

「暁臣さんは山岳会の会計を調べていましたね」

「関係ありません」

「明朝、あなたの横領を理事会へ報告する予定だった」

「黙って!」

 叫んだ途端、無線の向こうで風が唸った。山小屋の外ではなく、深い谷の底を通る風の音だった。

「最後に確認します。なぜロープを切った?」

「……あの人が全部ばらすと言ったからよ。私の人生を壊すって。だから先に、あの人を落とした。ビーコンの電池も抜いた。これで満足?」

 長い沈黙のあと、男が息を吐いた。

「十分だ。録音は救助隊へ送った」

「録音?」

「救助本部ではない。窓の外を見ろ」

 雪煙の向こうで、赤い灯が旋回していた。ヘリコプターだった。

「予備ビーコンを持っていてよかった。お前が電池を抜いたのは、見せかけの方だ」

 雑音の底で、聞き慣れた咳がした。

 暁臣は谷底まで落ちていなかった。十メートル下の氷棚に引っかかり、折れた肋骨を抱えたまま、予備無線で救助を呼んだ。そして隊員が到着するまでのあいだ、風と痛みで変わった声を利用し、小屋の無線を呼び出したのだ。

 扉が外から叩かれた。

「警察です。送信機を置いてください」

 私はそこでようやく理解した。

 六時間、死者にしたつもりでいた男は、ずっと生きていた。

 会話相手は救助員ではない。

 私が殺したはずの夫だった。