匿名化の三十五分前

調剤薬局向けポイントアプリのデータ売却会議で、雪村柚巴は壁際の補助席に座っていた。彼女は正社員ではない。顧客データの名寄せと匿名化を請け負う会社の二年目で、今日も処理手順を説明するだけのはずだった。

机上の契約書には「匿名化済み購買傾向四万八千二百三十件」とある。買い手は生命保険会社の関連マーケティング会社。売却額は三億二千万円だった。

薬局側の榎戸本部長は言った。

「氏名も電話番号も削除済みです。服薬傾向だけなら個人情報ではない」

柚巴は配信ログを投影した。買い手がデータをダウンロードした時刻は午前九時十二分。匿名化プログラムが実行されたのは九時四十七分だった。

「三十五分、順番が逆です」

本部長は、九時十二分のファイルは接続試験用の空データだと説明した。柚巴は二つのファイルのハッシュ値を示した。接続試験用とされたファイルは、売却対象の原本と完全に一致している。列には氏名、携帯番号、処方薬名、店舗コードが残っていた。

さらに買い手の受領確認印は九時三十分。匿名化より十七分早い。空ファイルを受け取った会社が、内容確認済みの印を押す理由はない。

柚巴の上司から「保守契約が飛ぶ。座れ」とメッセージが届いた。彼女は画面を伏せ、処理台帳の自分の署名を指した。九時四十七分まで原本を預かっていたことを証明する署名だった。

保険会社の担当者は、既に取得したファイルを削除すれば問題ないと言った。

「削除したことを、誰が確認しますか。売却する側も受け取る側も、時刻を逆に説明しているのに」

柚巴は契約書のデータ保証欄へ、九時十二分と九時四十七分のログを重ねた。

保険会社側の分析画面には、既に「高血圧薬継続」「睡眠薬増加」「糖尿病予備群」という顧客区分が作られていた。原本を見ていなければ付けられない分類だった。担当者は試算だと弁明したが、区分ごとの広告配信予約まで翌朝の日付で登録されていた。

薬局社長が三億二千万円の承認印を朱肉の手前で止めた。匿名化の三十五分前に渡された名前は、契約だけ匿名のまま通ることを許さなかった。